ハナレグミ『日々のあわ』|アイロンに最適な音楽を求めて vol.03

 元号がかわる長い連休が終わり、最初の平日の日々が過ぎた日曜日の夜、アイロンをかけた。
 連休の後半は故郷に帰ったが、その関係でシャツをあまり着なかったので、久々のアイロンとなった。


 帰省のあいだは、姪たちと多くの時間を過ごしたが、その一方で思いのほか自分だけの時間もあり、読書も進んだ。陽当たりのいい部屋で、ひとり、鳥と虫の声に囲まれ、そして川の流れる音を聞きながら本のページをめくり、ときどきうたた寝をすると、なんだか遠い土地へ来たような気がした。あるいは、遠い時代へ来たような気がした。

 その広い家の、幼い姪たちのいる空間へ行けば、そこは喧騒の渦の中心のような場所なのに、そこからわずかに離れた部屋では、人の声はまったく聞こえない。ごくたまに家の前を通る車のエンジン音、あるいは一日に限られた回数だけ聞こえる列車の音、そして窓から見える隣の家の土壁。それらはもちろん人の営みの結果で生まれたものなのだけれど、その人工的な音を聞き、また人工物を見ることで、逆に自分が存在している空間、光景、あるいはその行為から、現実感が薄れていく、そんな不思議な感覚に陥った。それは幸福な空間であり、また同時にある種の恐ろしさも含んでいた。姪たちの喧騒の空間で、現実的で即物的な音や光景に触れると、煩わしさも感じると同時に、ひどく安心したのも確かだった。


 帰省中に、うどんを食べた。一年の中でもゴールデンウィークは屈指の、あるいは最もうどん屋が混む時期なので、ほとんど諦めていたのだが──うどんは確かにおいしいが、何十分も並んでまでして食べるものではない、と僕は思っている。そういう行列、あるいは渋滞は、讃岐うどんというものの性質にそぐわない、と僕は思う──せっかくなのでと父親が車を出してくれた。少し昼の時間をずらしたこともあり、無事に見事なうどんにありつけた。

 僕が幼少期より通っていたうどん屋が、昨年店を閉めた。その店のうどんこそが、僕にとってのうどんのスタンダードであり、定期的に戻ってくる味であった。その頼るべき指針を失い、僕の中でのうどんは、一つの時代を終えた。大げさな表現ではなく、閉店のニュースを知ったとき、僕はしばし呆然とした。そして、今後何を僕の中での標準にすればよいのか、どこに帰ってくればよいのか、いまだにわからないままでいる。僕の舌のチューニングは、おそらくもう整えられることはないのだろう。それは遅かれ早かれ訪れることだっただろうが、しかしいざ実際にそのときが来てしまうと、まったく地に足がつかない。


 予測はしていたが、やはり連休というのはどれだけあっても終わってしまえばあっという間に感じた。何事もなかったように日々は過ぎ、僕は久しぶりに祖父の墓を参った。墓参りの日はあまりの暑さに今シーズンはじめてTシャツで活動した。

 次の新しい週を迎えるにあたり、アイロンを待っているたっぷり七枚のシャツにアイロンをかけることにした。スピーカーのスイッチを入れ、iPhoneでかけるべき音楽を選択した。ハナレグミの『日々のあわ』──冒頭の「ハイウェイ」の声が、ふと頭をよぎったのだ。


 僕がハナレグミを知ったのは、「家族の風景」発売の直前だった。その少し前にSUPER BUTTER DOGを知ったのだが、おそらく時期的に僕が聴き始めた直後にSUPER BUTTER DOGは活動休止に入ったのだと思う。

 ハナレグミのアルバム『音タイム』は高校二年生の秋に出たが、高校三年生になってからの方がよく聴いた記憶がある。理由は覚えていないが、『音タイム』を通して聴いたときに目に浮かぶのは、受験生の年の夏から秋にかけての光景だ。ちなみに同時期に買ったSUPER BUTTER DOGの『ラ』は、高校三年生の夏休み、受験勉強をしながら延々と聴いていた。音楽を聴きながら勉強がはかどったのかは定かではないが、とにかくよく聴いた。

 アルバム『日々のあわ』を買ったときは、すでに故郷を離れて札幌にいたと思う。実家で聴いた記憶がないし、発売時期を確認しても、入試シーズンのど真ん中なので、さすがにCDは買っていなかったのではないかと想像する(記憶が曖昧なのであくまで想像なのだが)。

 季節は定かではないけれど、気持ちの良い晴天の空を見ながら、一人暮らしの部屋で聴いていた記憶がなんとなくある。ただ、このアルバム自体がそういう光景を思い起こさせるアルバムなので(何しろ1曲目のタイトルが「うららかSUN」だ)、いまとなっては記憶が捏造されている可能性もある。でも季節や状況はともかく、大学一年生のときによく聴いたのはたしかだ。


 自宅をスタジオ化して録音した次作(『帰ってから、歌いたくなってもいいようにと思ったのだ』)は手作り感やオーガニック感がより増すのだけれど、それに比べると『日々のあわ』はまだ「製品感」が残っている。しかし僕はこのアルバムにおけるそのバランスがとても好きで、いまにいたるまで繰り返し聴いている。

 どんな季節でも、どんな天候でも、どんな場所でも、どんな状況でも気持ちよく聴くことのできる、貴重な音楽だと思う。暑くても、寒くても、晴れていても、雨の日でも、芝生の上でも、海でも、家の中でも、朝でも、一日の終わりにも、疲れていても、元気なときも、いつだってこのアルバムを体は拒まない。永積タカシ(=ハナレグミ)がまっすぐに放った歌声が、耳を通り気持ちよく体を抜けていく。記憶は消えていくかもしれない。でも、音楽を聴いたときに得る感覚は、いつまでも体が覚えているのではないかと、ハナレグミを聴くたびに、僕は思う。そして、少なくとも一つはそんな音楽を手に入れられたことに、安心している。


──2019.5.6