ささやかな記憶と、ささやかな証明|この街のどこかに vol.00

 いろいろなものを覚えている一方で、多くのことを忘れてきたのだと思う。目に映る景色、聞こえてきた音、そのとき感じたこと……覚えていることよりも、忘れてしまったことの方がきっと数多い。そしておそらく、いま覚えていることのいくつかも、あるいはほとんどを、やがて忘れてしまう。

 2005年にブログを始めたとき───つまり雪に埋もれた大学一年生の長い春休み───僕は書くことについてほとんど何も考えていなかった。ブログは当時作りかけていたホームページのひとつのコンテンツとするつもり程度だった。書くことは好きだったけれど、その後ブログに書くような文章(noteも含む)が独り立ちすることは、想像していなかった。小説を書こうという気も、ゼロではなかったかもしれないが、具体的に計画があるわけではなかったし、そのために何か取り組んでいることもなかった。

 ただ、当時からひとつだけはっきり決めていたことがあって、それはブログを単なる日記帳、より正確に書くなら、単なる業務日誌のようなものにはしない、ということだった。当時残した言葉だと、「その日したこと」ではなく、「その日考えたこと」を書きたい、ということになる。現実的に毎日毎日何かを書くことはできなくなったし、「その日」という短い期間でなく、少なくとも「そのころ」と言えるぐらいにはきちんと考えたことを書くようになったけれど、基本的な姿勢はいまも変わらない。

 さらに書くなら、公開する以上は最初から読まれることを意識して文章を書いてきた。読み手の多寡にかかわらず、これだけは首尾一貫してきた自負がある。たとえ読み手が書き手である自分しかいなくなっても、この意識だけは変わらないだろう。そしてまた、読まれることを意識しないで書くことが、僕は得意ではない。

 多くのことを、でたらめなことも含めて、書いてきたといっても、何でもかんでもを書いてきたわけではなかった。書かなかったこともあったし、書けなかったこともあった。書こうとさえ思わないこともあった。もちろん、まだ人生を振り返って総括するほどの年齢ではない(そうあってほしい)。それでも、記憶というものが時間とともに薄れていくものなら、ひきだしにしまったことさえきっかけがなければ忘れてしまうものなのなら、「取るに足らない」のラベルを貼ったひきだしの中身を、一度風にあててもいいのかもしれない。その記憶が、たとえもう何によっても証明できず、都合よく彩られたものであったとしても───そしてそれを誰が否定できるだろう───、「その文章が書かれたころ、そういう記憶があった」ということの、ささやかな証明にはなる。証明したところで何かにつながる保証はなくても、記録を残しておくことで振り返ることができることもあるということを、僕はもう知っている。