わかしょ文庫「うろん紀行 第1回 海芝浦」|静かにページをめくる日々 vol.03

 戦後の雑誌『旅』の編集に長く深く携わってきた岡田喜秋さんは、著書『秘められた旅路』の「まえがき」で、「私は文学の世界のなかで、「紀行文」というものが正式な座を占めるべきであることを以前から主張してきた」と書いている。1956年のことだ。

 もう少し長く引用しよう。


 旅とは自己発見である。それは私にとって、未知な世界へ自分が積極的に入りこむことを意味し、その世界で、自らが自分以外の対象とむきあって、自らを発見することである。旅についての定義はむかしから数多いが、大切なことは、旅が自らのこころの欲求であるか、ないかということである。

 私は文学の世界のなかで、「紀行文」というものが正式な座を占めるべきであることを以前から主張してきたが、紀行文が文学の領域のなかで、永いあいだ不遇で、正統に評価されなかった理由を、書く側の心がまえの問題にあると考えている。紀行文における基礎的な方法論についても、まだ真剣に考えている人がすくないのである。

 ひとつの旅を文章化するためには、そこに作者のもつ独自な眼が必要である。完成された眼というものは、望むべくもないにせよ、紀行文の世界では、体験の豊富さよりも、ひとつの冷徹な眼と観察対象に対する洞察力が必要とされる。さらに、視覚的な頭脳がおこなう批判力がなくてはならないと私は考えている

(引用は『新編 秘められた旅路』(2017年)より)


 海芝浦駅のことを、僕は宮脇俊三さんの『時刻表2万キロ』で知った。


 鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる。


 ──この一文で始まる宮脇さんのデビュー作は、紀行文が正式な座を占めるにいたった記念すべき作品であると思う。

 『時刻表2万キロ』全14章の中で、海芝浦駅は第2章に登場する。


 いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。東京の人は、いつまでたっても泉岳寺を訪れないし、東京タワーには昇らない。こういうところは修学旅行で来た生徒のほうが知っている。

 [……]

 鉄道にしてもおなじで、北海道の果てから九州の南端まで相当な足跡をのこしている人でも、鶴見線には乗らない。[……]

 用がなければ乗る必要はないから、鶴見線に乗らなくてもかまわないけれど、私などのように富山港線だと眼の色が変るが鶴見線には乗ったことがない、では心掛けの問題になってくる。なんだか、出張だと張り切るが本社ではさっぱり仕事をしない社員みたいで、よくない。

(『時刻表2万キロ』(1978年))



 というわけで宮脇さんは国鉄全線乗車の一環で鶴見線に乗りに行くのだが、このときの経験は宮脇さんの中でもとりわけ印象的だったようで、海芝浦駅や鶴見線は特に初期の宮脇さんの他の著作でもちょくちょく紹介されることになる。


 [……]とにかく、はじめて鶴見線に乗ったときは、ありゃりゃ、と感動し、ひとつの教訓を得た。

 その教訓とは、遠くへ行くばかりが旅ではない、ということであった。日常性の脱却にこそ旅の価値があるのであって、距離は問題ではない、ということであった。

 それいらい、何かにつけて鶴見線に乗るようになった。そして、乗るたびに、 

──これこそ「旅」であるぞ、 

  と思うのである。

(『終着駅へ行ってきます』(1984年))



 著作を読むと、どうやら少なくとも1984年時点では、海芝浦駅に公園はなく、ホームと東芝の事務所しかなかったようだ。東芝の敷地内にある駅で、また片側は運河なので、関係者以外は鉄道でしか訪れることができない。関係者以外は駅から出ることもできない。



 代わりに読む人のWebページで、『ランバダ』のわかしょ文庫さんによる連載「うろん紀行」が始まった。その第1回でわかしょ文庫さんが海芝浦を訪れている。梅雨の真っ只中の話だ。

 僕が海芝浦を訪れたのは、3月の終わりのことだった。当時はまだ札幌に住んでいた頃で、つまり大学生だった。春休みに東京周辺に来て、そのときに鶴見線に乗ったのだと思う。

 その日は曇りだった。ルートとしては、鶴見から海芝浦行きへ乗り、浅野まで戻って大川へ行き、安善まで戻って扇町まで行った。その後は浜川崎まで戻って南武支線で尻手へ向かった。海芝浦へ着いたのは夕方のことで、大川あたりで暗くなり始め、扇町へ着く頃には夜だった。その間、雨は降らなかったがずっと曇っていた。車内にほとんど人がいた記憶がないが、調べてみると土曜日だったようで、周辺の工場は休みだったのかもしれない。

 最も印象的だったのは、鶴見小野駅あたりからの景色、町の雰囲気だった。鉄道が高架から地上へ降りるあたり、家が立ち並び、そしてやがて工場地帯へと入っていく。頭に浮かんだのは「労働」という言葉だった。

 僕は大きな工場のある場所で育ったことがない。団地か、ベッドタウンか、もしくは都市の中でしか住んだ経験がなかった。しかし鶴見線は京浜工業地帯と表裏一体であり、僕の目にはそこに「労働」が見えた。当時21歳だった僕は、そのことに圧倒された。空は曇っていて、けだるい土曜日の夕方、世界が赤茶色に見えたことをよく覚えている。そこは僕の日常からは隔絶された世界で、ある意味では世界の果てだった。

 その頃、僕は鉄道で全国のいろいろな場所へ行っていた。観光をするのが目的ではなかった。景勝地を訪れることにもさほど興味はなかった。ただ鈍行列車に揺られるだけでよかった。景色を見て、空気を吸い、その土地の人の会話を聞くだけでよかった。JRの乗車区間を増やしていくというゲームのような楽しみもあったが、それだけでは続かなかっただろう。行く先々の土地を感じること、その結果として未乗線区間を減らしていく。僕は車を運転しなかったし(いまもしない)、あちこち飛び回れるほどのお金もなかった。鈍行列車というのは、その意味で最適な乗り物だった。裏を返せば、車を運転しないし、お金もなかったので、一人で観光地や景勝地に向かうのは難しかったということでもある。

 海芝浦へ向かったのは、ゲーム的要素が強かった。東京近郊の未乗線区間を潰しておこうというのが第一の目的だった。もちろんホームの下が海という駅には強い興味があった。敬愛する宮脇俊三さんの足跡もたどりたかった。しかし、どこへ行くのにも同じように、何かを得られるのではないかという過度な期待を持っていたわけではなかった。最初から冷めていたわけでもなかった。そこには町があり、人がいて、生活がある。結果として、鶴見線の車中で、あるいは電車を待った浅野駅で、僕は工業地帯を感じた。それははじめての感覚だった。

 浅野駅でどのくらいの待ち時間があったのかは忘れてしまった。あるいは僕の場合も45分ほどだったのかもしれない。雨は降っていなかったので近くの公園まで歩いた。ヤギがいたかどうかはもう覚えていないが、大きなカメラを持つ少年はいなかった。

 わかしょ文庫さんの最初の「うろん紀行」を読んで、いくつかの記憶がよみがえってきた。それらはいつでも取り出せるようにひきだしに入れていたものだが、しかしきっかけがなかったらひきだしを開けることもなかった。

 もしかしたら、その12年前の記憶の一部は、あるいは大半は、もしくは全部が、僕の中で書き換えられた都合のいい記憶なのかもしれない。そのとき感じたものを、僕は何にも残していない。

 でも、今日、この紀行文を読んで、何かを思い出し(あるいは思い出したつもりになり)、そして何かを思ったことはたしかであり、文章を読みながら、曇り空の写真を見ながら、不思議な感覚があったのはたしかである。そしてその不思議な感覚をうまく言葉にするために、僕はもっと本を読み、文章を読み、そしてまたわかしょ文庫さんの紀行文を読みたいと思った。