くるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』|アイロンに最適な音楽を求めて vol.07

 梅雨らしい梅雨の天気になり、気温も低い日が続いていた。6月30日の夜に、アイロンをかけた。日曜日の夜というかつてのお決まりの時間にアイロンをかけるのは久しぶりだった。少し前に当て布を買った。衣類を洗濯ネットに入れたり、当て布をしたり、取り組み方が徐々に変わっていく。


 ものの見え方が少し変わったような気がしたのは、今年の3月のことだった。四谷でうどんを食べ、たい焼きを待つ長い列に並びながら本を読んだ。読んでいたのは三田誠広『小説を深く読む ぼくの読書遍歴』(海竜社)だった。三田さんの読者であれば「おさらい」のような内容が主で、読みながら高校生の頃を思い出していた。春の日差しの中で、光の感じ方がそれまでと少し違うように思った。それは単に、長い時間、外にいたからだろうか?

 それから少しして、僕は本屋へ足繁く通うようになった。そのピークが6月で、訪れた順に書くと、H.A.Bookstore、文禄堂 高円寺店、本屋イトマイ、本屋Title、書楽 阿佐ヶ谷店、双子のライオン堂、ジュンク堂書店 池袋本店、水中書店、りんてん舎、早春書店を訪れている。間違いなくこれまででもっとも多くの本屋に行った月だった。ほかにも催し物で夏葉社に行って本を買ったり、個人出版の本を著者本人から買い求めたりしている。いま振り返ると自分でも何があったのかと思うが、僕の中では3月のあのたい焼きを待つ時間から続いている日々で、そしてその日々はいまもまだ続いている。


 そんな6月の最終日に、くるりの『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』をかけた。夜も遅い時間で、アイロンをかける部屋以外は電気が消されていた。

 くるりはアルバムによってコンセプトが大きく変わるバンドだ。変わること、試すこと、変わり続けること、それを僕は正としてきたつもりだった。ときに立ち止まることも大切だが、昨日の自分と違う人間になることは、間違ったことではない。

 しかしながら、それに気づくまでには、少し時間を要した。変わっていくものを「変わってしまった」ととらえることは簡単で、そう言葉にすることはもっと簡単だ。でも、体内に取り入れることは言葉よりずっと簡単ではない。取り入れてから消化するのはもっと難しい。くるりを最初に聞いた頃───僕は高校生で、アルバム『アンテナ』の頃だった───の衝撃が大きかったぶん、それより後のくるりに対してどう向き合えばよいのか、長いあいだ視線が定まらないでいた。

 それだけに、自分の中でのくるりの再評価は、小さくないターニングポイントだった。もちろん、好みの問題はある。でも、なるべく先入観を持たず、できるだけ余計な知識を排除して、身勝手な期待を押し付けないことを心がけられるようになったと思ったとき、ずっと感じていたつっかえが取れたような気がした。一方的なわだかまりが解消されたと、これもまた一方的に思った。

 なので、僕はくるりのアルバムを手にするたび、少し苦味のある気持ちを抱えることになる。それでも『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』のジャケットを見て、「でも、このジャケットは、最初からすごく素敵だったよな」と思う。このアルバムを買った当時、僕は下町に住んでいて、消火器と電話ボックスと提灯と電信柱の、そんな風景が、すぐ近所に転がっていても、おかしくはなかった。

 一階の陽の当たらない洞穴のような部屋だった。あの部屋で梅雨を一度だけ過ごしたはずだが、その頃のことはもう思い出せない。あの部屋ではシャツにアイロンをかけたのだろうか? つい数年前のことでも、記憶は薄れていく。CDプレーヤーとCDラックだけは、あの部屋から何度かの引越しを経て、いまも自宅にある。でも、においをかいでも、あの部屋のにおいはしない。もちろん、プレーヤーが、あの部屋の思い出を語ることはない。