滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』 |静かにページをめくる日々 vol.04

 僕は外国語が非常に苦手だ。聞いても読んでもまったく理解できないし、意味も覚えられない。英語もそうだし、大学時代の第二外国語のフランス語もからきしダメだった。残念ではあるけれど、これはもう先天的なものだと諦めている。そう思わないではいられないほど苦手なのだ。学習しようとしてもまったく体に入ってこないのが、自分でよくわかる。自分の何が外国語の習得を拒んでいるのだろう? はたして自分が外国の地を踏むことはあるのだろうか?


 滝口悠生という作家を知ったのは、昨年の初夏のことで、それまで恥ずかしながら僕はその作家の名前を存じ上げていなかった。

 板橋区ときわ台の本屋イトマイで棚を眺めていて、ふと『高架線』というタイトルが目についた。隣には同じ作家の『茄子の輝き』という本も並んでいて、結局その日は『茄子の輝き』の方を購入した。なにしろ名も知らぬ作家の本で、買うのにいつもより慎重になったのを覚えている。

 会計のとき、店主に「滝口悠生さんは他に読んだことありますか」と聞かれた。「はじめて読みます」と答えると、「すごくいい本です。『高架線』もおもしろいですよ」と言われた。会計時に言葉を交わすことはあっても、店主から「いい本です」というようなことを言われたことはなかった。そこには店主の確信と静かな自信が見えた。

 はたして『茄子の輝き』はいい本だった。イトマイの喫茶スペースで、自宅で、読み進めた。読み終わり、『高架線』を買った。ちょうどお盆の時期になっていて、帰省の際に持って帰って妻の実家で読み終えた。すっかりこの作家のファンになっていた。


 その滝口さんの日記本が、昨年の年末に出版された。アメリカのアイオワ大学で毎年開催されているインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)という企画があり、そこでは約10週間、各国から集まった作家がアイオワに滞在していろいろなプログラムが催される。滝口さんは2018年の参加者で、この年は27の国と地域から28名のライターがアイオワに集まった。滝口さんはその日々を「アイオワ日記」として『新潮』に何度か寄稿していて、それらを改稿してまとめた本が、NUMABOOKSから『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』として出たのだった。

 僕はこの本を年明けからゆっくりと読み始めた。そして1月の終わりのある寒い夜、やかんでお茶を沸かしている間に、リビングのテーブルで読み終えた。

 しみじみといい本だった。「読み終わるのが惜しい」という感想がツイッターではよく流れていて目にしていたが、その感じはよくわかる。

 日記なのだが、進むにつれてだんだん小説のようだった。僕はIWPのことを知らなかったこともあり、最初、何が起こるのかわからないまま読みはじめた。出てくる名前も覚えられなかった。アイオワで何が起こるのか、何をしていたのか、何のために作家たちは集まったのか、それは結局最後までよくわからなかった。それは当事者である滝口さんも同じだったようで、だからこそ、なんだかよくわからないが風景は流れていて、そこに自分もいる、ということを、作家と一緒に体験しているような、そんな不思議な感覚だった。風景に透明の幕が張られたように、はっきり見えてはいるのだけれど、なんだかゆがみがある、そんな印象が、最初から最後まであった。そして作家が徐々に他の参加者と親交を深めたり、そのパーソナリティーをつかんでいくように、読んでいる僕にとっても、当初は覚えられず判別がつかなかった名前が、だんだん個別のパーソナリティーをまとっていくのを感じた。

 あの初夏の日、それまで何度も見て立ち止まらなかった本に目が止まり、手に取り、購入し、店主に声をかけられた。あの日がなかったとしても、そのうち出会うことになった作家だったのかもしれない。しかしあの日に出会えたからこそ、あの日の出会い方ができたからこそ、こうやって充実した気持ちで本を読み終えられたのだと、僕は信じたい。ともかく、いい本だった。いい日記だった。いい文学だった。この読み終えた感触と、そして知識や情報を持って、また最初から読み返すことになるだろう(RPGを全クリしてまた最初からプレイするあの感じに似ている)。おそらくそれは、そう遠くない日だと予想する。