2011年3月11日、13日、そして一年後の景色 | この街のどこかに vol.02

 滝口悠生の小説『高架線』の中に、「その日をどこでどう過ごしたか、あの頃は誰かと顔を合わせればまずそのことを報告しあったし、そのあと親しくなった人とも、必ずいつかはその話題を交換することになった」という一節がある。「その日」とは2011年3月11日のことだ。この一節の通り、僕も当時はよく誰かとその日のことについて報告しあったし、その後出会った多くの人とも、同じことを話している。話さないではいられなかったし、一方で、話せるぐらいの余裕もあったということだろう、といまとなっては思う。


 その日───つまり2011年3月11日、14時46分、僕は日本橋にある会社にいた。晴れた金曜日、あと三時間ほどで今週の勤務が終わる、いくぶん心やすまる時間だ。僕の席からは都心の空が見えていた。

 古いビルの7階で、取引先の女の子と電話をしていたところだった。当時はほとんど一日中電話をかけるか受けるかしていたので、相手がその女の子でなくても、誰かと電話をしていただろうと思う。その相手がたまたま彼女だっただけだ。話しながら、揺れを感じた。「あ、地震だ」「地震ですね」というような言葉を交わすうちに、まもなく揺れは強くなり、そして止む気配を見せなかった。地震は何度も経験があれど、それまでに感じたことのない揺れだった。いつもは底抜けに明るい電話の相手が、恐怖でほとんど叫ぶように「いったん切ります」と言って通話が終わった。同じフロアにいた人たちは全員机の下にもぐって揺れを耐えた。隣の席の女の子と、「え、やばくない」「やばいね」みたいなことを言い合った。机の上に積まれた書類がばらばらと床に落ちてきた。僕はこれが首都直下地震かと思っていた。正直なところ、電話を切ったときは、相手の反応が大げさだなと思ったが、結果として、その後の状況は彼女の不安な叫び以上に深刻なこととなった。

 当時、我々の部署にはインターネットブラウザが入っているパソコンがひとつしかなく、各自のパソコンはメーラーと業務に使う専用システムなどが入っているだけで、地震や天気、あるいは交通情報などの情報は、その部署にひとつのパソコンで見るしかなかった。iPhoneはソフトバンクだけ、Android端末は発売されたばかりで、スマートフォン自体がまだほとんど普及していない時代だ。ひとつ上の先輩がその共用パソコンに走り、地震速報を伝えた。「宮城県で震度7」と先輩が叫んだ。当時勤めていた会社には全国にいくつかの工場があり、地震が起こるとその操業に支障が出る。僕や若手は主に各工場の生産管理を担当していたので、どこかで地震があると各自が担当する工場と連絡をとるのを常としていた。だがこのときはそんなことよりも、とにかくいったん屋外に避難をすることになった。非常階段を降り、外に出た。余震もあった。ビルが崩れることはないだろうと思ったが、しかし経験のない揺れだったし、ビル自体も古かったので、その保証はなかった。すぐ近くに日本銀行の本店があったので、いざとなればそこに逃げれば安心だね、ということを同僚と話した。

 しばらくしてフロアに戻ることとなったが、上がってみると、僕のいるビルと、隣に建てて行き来ができるようになっていたビルの接合部に亀裂が入っていた。

 落ち着く時間はなく、書類も散らかったままだった。いつもなら各担当がそれぞれ工場にいる担当者に電話をするところだが、そのとき僕が工場に電話をかけた記憶がない。おそらく事態が事態なので、しかるべき人が、しかるべき相手に被害状況や操業状況の確認をしたのではなかったかと思う。震源に最も近いのは茨城にある工場で、かつて僕も担当したことのある工場だった。だがこの段階ではどこでどんな被害が出ているのか情報が入っておらず、津波のことも知らなかった。

 その頃僕が担当していたのは、震源からはそこまで近くない場所にある工場だった。おそらく地震の揺れでの工場そのものへの被害はないだろう、と経験的に思った。そして実際に揺れでの機械の損傷などはなかったが、何かの理由で(はっきりしたことは忘れてしまった)、数日間工場の操業を停止することになった。あるいは工業用水のラインの関係だったかもしれないし、あるいは配送の関係だったかもしれないし、資材の調達の関係かもしれない。とにかく何かの理由でそうなり、僕も生産管理の担当として納期や出荷予定の状況を聞かれた。そこで機械が止まると納期が引っかかるものもあったが、かといって遅れたとしても誰かが命を落とすわけではない。「この仕事で何かがあっても経済に与える影響はほとんど皆無だし、まして誰かが死ぬわけではない」というのが、僕が当時の仕事で得た、数少ない確信だった。なお、その後の話になるが、工場自体はすぐに操業を再開できたものの、使用していた資材の中にほとんど東北でしか生産されていないものがあり、その影響がかなり長く尾を引くことになった。

 屋外避難からフロアに戻って、各工場の操業が確認されるまでの間に、埼玉に住む祖母に電話をかけた。だが、当時多くの人が経験したように、電話自体がどこにもつながらなかった。正確には、きわめてつながりにくい状況だった。何度かけても音がしない。当時僕は一人暮らしをしていたが、祖母の安否も心配だったし、祖母が自分の安否を心配しているのではないかという不安もあった。とにかく、無事ということを知りたいし、無事ということを伝えたい。だが、呼び出し音が鳴らない。

 あまりにつながらないので、いったん四国の実家に連絡をとってみた。実家経由で落ち着いて祖母に連絡をとってもらおうと思ったからだ。実家への電話は一発でつながった。母の声が聞こえたときの安心感を、僕はこれからも忘れないだろうと思う。安心したことによって涙が出るということを、はじめて経験したし、その後も経験がない。

 事態は何も解決していないし、正確な情報が入ってこない状況に、不安はより増していったが、ひとつだけわかっていたのは、鉄道網が機能しておらず、家に帰れないということだった。家まである程度までの距離の人は歩いて帰っていったが、僕はあきらめて会社に泊まることにした。多摩方面、埼玉方面、千葉方面などの人が同じように会社に残った。隣の部署はちょうどその日から社員旅行をする予定で、酒やつまみを大量に用意していたが、当然ながら旅行自体が中止となり、仕方なく残った数人で酒を飲みはじめていた。

 フロアにはテレビがなかったが、僕の当時の携帯電話にワンセグ機能が付いていたため、NHKに合わせた。窓の外をのぞくと、歩いて家路につく人たちの列が、長く続いていた。まるでゾンビ映画のような、ゆっくりと、長く、そして同じ方向へ進む列。暗い照明のフロアには、ゾンビ映画に参加できない人たちが、ダンボールの寝床を用意しはじめていた。

 そんな不吉な世界で、携帯電話の小さな画面は、地震の情報を流し続けた。「仙台の浜に200人の遺体が上がっているという情報がある」という情報は、しかし海辺には近づけないため、映像がなく文字テロップだけが流れた。被害者は状況が明らかになるたびに増えていった。「津波によって気仙沼の街が燃えている」という情報には映像があった。真っ暗な画面に、立ち上る炎だけが映っていた。津波が押し寄せた結果、街が燃えている、という状況が、そのときはうまく理解できなかった。ただ映像だけが、この世の終わりのような炎を画面の外に送っていた。

 小さい画面というのは、より恐怖を煽ったのかもしれない。僕はテレビを消して、寝ることにした。酒を飲む気にはならない。もちろん仕事をする気にもならないし、そもそもその状況で何ができるのかもわからなかった。とにかく休むことだ。空が明るくなれば、事態は変わるかもしれない。

 当時、ちょうど他の部署が建物内での引っ越しを控えていて、社内には大量のダンボールがあった。それをフロアの床に敷いて横になる。ダンボールの上で寝てみてわかったことは、ダンボールは暖かいということだ。当時住んでいた川崎の家の近くでは、夜になるとたくさんのダンボールの家が作られていたが、彼らがダンボールを選ぶ理由がわかる。少し離れた場所からは、酒を飲んでいる人たちの声が聞こえてきた。

 夜が明ける前、再び揺れで目が覚めた。携帯のテレビをつけると、最大震度6強、長野県北部が震源だという。長野県北部? 何が起きているのか、考える体力はなかった。

 数日後には静岡でも震度6強の地震があった。原発での爆発も含めて、いつどこで何が起きてもおかしくはないと、当時の自分の近くの人間たちは切実に感じていたように思う。やがてその切実さは薄れていったにしても、ほんの一瞬でも、我々は危機感を共有できていたのではないか、いまでもそう思うことがある。他人と思いを共有することなど不可能、あるいはほとんど無理だからこそ、あのときの荒んだ一体感が、奇妙な体験としていまも記憶に残っている。

 日が昇り、少しずつ運転を再開する路線が出てきていた。電力不足の危機が明らかになって運休が相次いだ週明けの月曜日よりも、もしかしたらこの日の方が動いている路線は多かったかもしれない。

 僕は自宅へは帰らず、とりあえず祖母宅へ向かうことにした。池袋から西武池袋線に乗った。車内は乗客も多くなく、静かだった。空は晴れていて、日差しが車内に入り込んだ。駅へ着き、駅前のスーパーに寄った。数日後にはどの店からも水やカップ麺が消えるわけだが、このときはまだペットボトルの水が整然と棚に並んでいた。


 一年後、2012年3月18日に、僕はブログを更新した。タイトルは「2011年3月18日」。地震から一週間後の日に携帯電話に残した文章を、一年経って公開した。「まるでウソみたいだなと思った」と書いた春の風景を、僕はいまもよく覚えている。

 2011年3月13日、穏やかな陽光が降り注ぎ、景色はとてもくっきりと見えた。川崎駅の東口では、コンタクトレンズ屋がいつもと変わりなくビラを配っていた。何事もなかったように、道ゆく人に、ビラを渡していた。やっぱりそれは、ウソみたいだった。ただ、あの数日に聞いた音を、僕は思い出すことができない。音なんて鳴っていなかったんじゃないか、そんなふうにさえ思う。それはたぶん当時も同じだったはずで、だから景色を、2011年の僕は、「物語的」と書いたのだと思う。


「2011年3月18日」

一週間前、大きな地震が起きて
津波でたくさんの街が消えて
多くの人が今も寒さに震えて
原発では爆発を止めるために戦う人がいて
関東では毎日大きな停電が起きて
電車はいつも満員で
店の棚からは商品が消えて
バラエティー番組を見ながら、東京では放射能の恐怖におびえている

それでも
空気は春のように暖かで
風は木々の葉を揺らし
空はどこまでも青い
まるでつくりもののように青い

劇的というか
物語的というか


***

去年、地震から一週間後の日に携帯に残した文章。

地震の翌日、僕は会社から所沢に帰った。
彼女を浦和駅まで送り、久々にゆっくりと眠った。一瞬で朝が来た。
13日、昼前に家を出て、川崎に向かった。電車はガラガラだった。
川崎の駅前では、いつもと同じようにコンタクト屋がビラを配っていた。空はものすごく晴れ渡っていた。
バスの窓からは春の光が輝いて見えた。空も、街路樹も、建物も、すべてがきれいだった。
まるでウソみたいだなと思った。

当時、この文章をブログに載せるかどうか悩んだが、けっきょく載せないことにした。
そのときは、自分たちがこれからどうなるかなんて、誰にもわからなかったから。
この文章を載せた次の日に、世界がまったく変わることだって考えられたから。

地震から一年が経って、携帯から文章を引っ張りだしてみた。
そして、いい頃合いだと思って、ブログに載せることにした。
この文章は、一年後の自分をすぐに一年前に引き戻す。
あのとき感じていた空気は、一年経った今でも忘れることがない。

でも、一年経ったからといって、当時と何かが決定的に変わったかと聞かれたら、口をつぐんでしまう。
その現実が、何よりも恐ろしい。

──2012年3月18日のブログより。