僕のマリ・伊藤佑弥『ハッピーブルーサマー』 | 静かにページをめくる日々 vol.06

「どうやって友達になったんだっけ?」
「最初の会話はなんだっけ?」
「どっちから話しかけたっけ?」
「偶然同じクラスだったり」
「バイト先が一緒だったり」
「思い出せないけど きっと思い出す必要なんてない」

──岡崎体育「FRIENDS」



 その人やその物やその店をその場所を、どこでどうやって知ったのか、はっきり思い出せるものもあれば、すっかり忘れているものもある。20年ちかく前のことなのに初対面のときのことを詳細に覚えていることもあれば、いつの間にか気がつけば……みたいなことも多い。

 去年の年末、本屋イトマイで店主の鈴木さんと話していて、「イトマイをどこで知ったのか」という話題になった。ツイッターで知ったのは確実なのだけれど、どういう経緯でとなると、もはや定かではない。当時の僕が自分でときわ台の情報を仕入れることはないので、誰かのツイートかリツイートで知ったとしか思えないが、それがいつ、誰経由で、というのは、もうはっきりとはわからない。わからなくても、何も困らないけれど。



 1月から3月まで、公募枠で参加した「日記を書く読む。魅力にせまるブックフェア」、通称「日記フェア」もしくは「日記本フェア」で購入した、僕のマリさんと伊藤佑弥さんの『ハッピーブルーサマー』と『2人の2月』がとてもおもしろかった。

 まず『ハッピーブルーサマー』を買って、後半から読みはじめた。後半は伊藤佑弥さんのパート。なぜ後半から読んだのかは覚えていない(その後すぐ続けて前半も読んだ)。少し補足すると、この本は、僕のマリさんと伊藤佑弥さんがそれぞれ書いた8月の日記が載った日記本。

 僕は自分の日記本(『言葉に棲む日々』)を作ろうと思った時点では、日記をつけることがほとんどはじめてで、日記を本にしたものもほとんど読んだことがなかったから、「日記とは何か」「日記本とは何か」ということを、ずっと考え続けていた。最初の日記本は、そういう悩みがある、手探りな状態で、ひとつの自分なりの形を持とうとする試みの中で作られた。

 「日記とは何か」という問いはその後もずっと続いていて、いまだ手探りな状態は続いている。そんな中で読んだ『ハッピーブルーサマー』に、僕は衝撃を受けた。一挙手一投足が展開される日記。僕が書いた日記本とはまったくタイプの違う日記本で、「こういうのもありなのか!」と、全然知らない世界を見るようだった。僕には思い浮かびもしなかった視点、書き方だった。
 これはすごいものを読んだと思って『2人の2月』を購入した。時系列的には『2人の2月』の方が前で、同じく2月の日記が載った本。夏と冬、違う季節の、同じ月の、別の二人の日記。


 伊藤佑弥さんの文章が特によくて、それには「ゆかりさん」の存在が大きいと思う。
 配偶者や家族のことを文中に何と表記するかは、なかなか難しい問題で、僕はすべて間柄で書いた。「妻」とか「弟」とか「姪」とか。二人暮らしなのでとりわけ「妻」の登場回数は多いのだけれど、すべて「妻」と書いた。

 それに対して「ゆかりさん」だ。間柄という記号ではなく、固有の名前があることで、ぐっと日記やその日々が身近なものに感じる。出てくる人に名前やニックネームがあると、日記の現実感が増すように思う。ほとんど、あるいは全然知らない人であっても、その存在や関係性が目に浮かぶ。もちろん僕にとって僕の妻は唯一無二の存在で、いろいろ話したり、考えたり、行動したりしているけれど、「間柄」では物語の主要な登場人物にすることは難しい。逆にいえば、「妻」としか書かないことで、淡々とした、どこか突き放したような日記にできるのでは、とも分析できるし、間柄表記ならではの愛情の込め方もできるとも思っているのだが。

 この二冊の日記を、心地よく読んだ。
 心地のよい日記はいい。僕は夜寝る前に本を読むことが多いのだけど、心地のよい日記を読みながら眠りにつけたら、自分のその一日が、そしてあくる日の一日が、心地のよいものになるような気がする。



 ところで、「僕のマリ」さんというのはとても印象的な名前で、印象的だからこそ購入前からお名前を存じていたが、いったいどこで知ったかとなると、もう定かではない。なんとなくいつの間にか知っていて、記憶に残っていたパターン。文章を読むのもおそらくはじめて。

 伊藤さんは正真正銘はじめてだなと思っていたら、氏が以前「元カノを誤訳」というグループで文学フリマに出ていたことを知る。この名前は知っていて、というかこちらもまた印象的な名前で記憶に残っていて、三年ぶりぐらいに見たそのフレーズに、少し声が出てしまった。