伊藤佑弥『ゆかりある日記』 | 静かにページをめくる日々 vol.07

 僕と妻が同じ本を読むことはまずない。読んだのは、これまでで漫画を含めたって数作品。片手で数えられるかもしれない。
 読まないとわかっているので、自分が読んだ本をすすめることもない。すすめられたって、妻は読まないだろう。そういう僕だって、ひとからすすめられて読み通した本は数少ない。

 その極めて例外的な存在が、伊藤佑弥さんの『ゆかりある日記』だった。

 要約すれば、夫(伊藤さん)による妻(ゆかりさん)の観察日記……と思っていたのだけれど、あらためて読み返してみると、ゆかりさんの登場しないエピソードもいくつかあって、また登場してもゆかりさんが中心にいないエピソードも意外にある。観察日記の部分も多いけれど、まさにタイトル通り、「ゆかりさんとともにある伊藤さんの日々」という説明がよりしっくりくることに気づいた。

 僕はこの本を、前回このnoteで紹介した伊藤さんと僕のマリさんの日記を読んだ後、求めて購入した。
 布団の中で読みながら、ふふ、と、またときには声を上げて笑った。寝ている妻が起きないか心配になったほどだ。そして読み進める間、これは妻も楽しんで読むのではないか、と思った。

 はたしてその予想は的中した。翌朝、妻に本を渡し、特に食いつきがよさそうなページを指定した。妻は「私でも読めるかも」と言い、数日後には読み終わっていた。
 これおもしろいから読んでごらんよと僕が渡した本を妻が読むというのは、おそらく一度も経験がない。これはわが家の歴史的な事件だった。

 ゆかりさんのとぼけっぷりがいい。それを見る伊藤さんの描写がおもしろい。眼差しには愛情があり、二人の間には信頼がある。

 大きさは文庫版で、エピソードは各ページに一つか二つというのがほとんど。レイアウトに気を遣っていて、ページをまたぐエピソードというのは、長編(この本的には大長編)しかない。残りは同一ページ内ではじまり、同一ページ内で終わる。
 そのように各エピソードは短く、キレがある。読むうちにほっとした気持ちになる。こういう夫婦関係なら愉快だろうなと思う。

 そのエピソードの中から、特に短いものをいくつか引用する。


「CMを見ている」

 ゆかりさんはCMが好きだ。食べ物のCMだと目を大きく開け、口も少し開いてしまっている。CMで食欲を満たそうとしているのかもしれない。今日はミニストップのCMをじっと見つめていた。行きたいのかもしれない。時間帯を見て、今日はミニストップ行く? と言うのはやめる。誘えばゆかりさんが「ゆうやさんが行きたいならしょうがない。ついってってやろう」と自分が一番行きたいのに人のせいにして行くはず。ゆかりさんは行きたそうにCMを見つめていた。


「教えるゆかりさん」

 ゆかりさんは僕の寝たふりをすぐに見破ってくる。薄目を開けているとじっとこちらを見ていて「薄目を開けているな!」と名探偵が犯人を指差すように言うので笑ってしまってバレる。

 もしかしたら本当に寝ている時も見られているのかもしれない。


「トリケラトプスに似ている」

 ゆかりさんはトリケラトプスに似ているねと言うと「なんてやつだ!」と言われた。怒っているわけではない、砂糖を溶かしたような口調で言うゆかりさんの口癖でよく言っている。

 僕が何かいたずらをしたときは、すぐに「なんてやつだ」と言い、ゆかりさんのことをSNSで書き込みすれば、後にそのつぶやきを見て「なんてやつだ」と言う。

 いつも本当に「なんてやつだ」と思っていないような言い方で言っている。


 わずかこれだけの話だけれど、想像するだけでゆかりさんはおもしろいし、こういう夫婦は、あるいは家庭は愉快だろうなと思う。


 夫婦は似てくるという話をしばしば聞く。『ゆかりある日記』にも、容姿の話として、そういうエピソードがある。
 内田樹氏の『困難な結婚』でも夫婦が「だんだん似てくる」事象に言及されている。


 最初に似るのは「語彙」です。だって、毎日顔を合わせて会話しているわけですから、自分のもともとの手持ちの語彙に存在しない単語でも、相手が頻用していればいつのまにか自分の語彙に登録されます。それをつい他のところでも使うようになる。そして、語彙というのはある種の社会的態度と癒着していますから、それは配偶者の社会的態度を部分的に流用することにもなる。

<中略>

 言葉づかいって「感染る」んです。言葉と一緒にものの考え方や美意識や価値観も感染する。あくまで部分的にではありますけれど、感染します。そして、気がつくと、その夫婦は固有の「民族誌的因習」のごときものを共有するようになる。


 なるほどと膝を打った。自分でも身に覚えがいくつもある。

 一方で、だんだん似てくるのとは別に、「似た人が夫婦になっている」ということが、わが家ではときどき話題になる。
 言い出したのは妻で、我々の近しい夫婦を思い浮かべて、似た雰囲気の人同士が結婚しているという話になった。くっついてから似た雰囲気を醸し出している部分もあるだろうけれど、そもそもくっつく前から同じような空気をまとっていた、というのが妻の主張である。

 たとえば、いくつかの現実の夫婦の、夫同士、妻同士を入れ替えたところを想像してみる。これが、全然想像できない。夫婦として、まったく似合わない。調和がとれない。あの人の妻にはあの人しかなれないし、この人の夫にはこの人以外考えられない。異なるパートナーとの具体的な生活を想像しようとしても、すぐに破綻してしまう。逆に言うと、現実は収まるべきところに収まっているという感じがする。

 だからこそ結婚している・できているのかもしれない。一緒に暮らしていることが想像すらできない人、想像してもすぐにはっきりとした困難が見えてしまう人は、結婚のパートナーとしては極めて成立しにくいように思う。当たり前のようなことを書いている気もするけれど。

 『ゆかりある日記』に話を戻すと、夫婦はよく似ているし、お似合いだと思った。最初からお似合いだったのかもしれないし、長い付き合いの中で徐々にお似合いになっていったのかもしれない。
 そのどちらかはわからないが、何より、「少なくない期間をお似合いであり続けていること」がエピソードの中から感じられ、それがとても素敵なことだと思った。

 ある時期にお似合いであることは、やさしいことかもしれない。でも、お似合いであり続けることは難しい。信頼関係はもちろんだが、思うに、そこには一定の「初々しさ」が必要なのではないだろうか。
 初々しさがなくなるのは、良く言えば「成熟」だが、悪く言えば「冷めた」ことになる。お似合いだとまわりが感じるには、関係に熱っぽさが見えないといけないが、熱々すぎるのはお似合い以前の段階で、初々しすぎてもいけない。その塩梅を維持するのは、たぶん簡単ではない。もしかしたら、狙ってできることではないのかもしれない。だからこそ、素敵な関係だと思う。

 妻がこの本を読み終えて、「私のこともこうやって書いてほしい」と僕にリクエストした。冗談なのか、本気なのか、それはわからない。それに、愉快な日常を、こんなにキレよく描写できるかも、わからない。でもそれ以来、僕は来るべきそのときのために、妻の可笑しな行動をノートにメモしている。
 結婚して丸5年、日々、なかなかにおもしろいエピソードがあって、少しでも愉快に書けたらと思っている。まあ、書けなくても、日々が愉快であれば、それだけで十分ではあるのだけれど。


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引用:
・『ゆかりある日記』伊藤佑弥(2019)p28,34,35
  ※「CMを見ている」の「ついってって」は原文ママ
・『困難な結婚』内田樹(アルテスパブリッシング、2016)p163-164