『男はつらいよ』を愉快に書く日々 準備中

 映画『男はつらいよ』について、遠くない未来に書きたいと思っている。具体的には来年だろうか。来年"から"になるかもしれない。愉快に書きたい。

 昨年末に「新作」が公開され、全作の初のブルーレイも発売されて、『男はつらいよ』にぐんと接しやすくなった。Amazonプライム・ビデオでも取り扱いがある。

 「新作」含めシリーズ50作を数える"国民映画"とはいえ、渥美清の遺作となった第48作の公開は1995年であり(第49作=第25作を再編集した特別編は1997年公開)、そこから24年(特別編からは22年)ぶりに公開された「新作」だった。渥美清が亡くなったとき僕は小学5年生で、『男はつらいよ』を劇場で観たことはなかった。「寅さん」と同時代に生きたとは言いがたく、その時代性を体感していると言うことも難しい。何かを書いたとしても、リアルタイムにあの時代を生きた人たちの言葉に比べると、どうしたってある部分では説得力を持たないだろう。体感の有無の差というのは後の世の人間には絶対に乗り越えられないところで、乗り越えようとしても仕様のないことでもある。

 僕が書くことは、「新しいこと」とはならないだろう。むしろ「新しく書こうとすること」へ逆行した文章になる、という予感がある。

 映画第1作の公開が1969年、第48作が1995年で、いまと比べると、時代にもいくぶん、もしくはかなりの隔たりがある。いま『男はつらいよ』について書こうとすると、ある程度冷静な視線を持てて、これまであまり語られなかった視点から「寅さん」を語ることができる一方、その「新しさ」ばかりが先行してしまう可能性もある。それはそれで大いに意味のあることだろうし、後の世にかけてあれこれ語られる映画というのは、偉大な存在であるとも言える。

 しかしながら、僕としては、過度に現代的な視点に寄り過ぎないということに、むしろ気を遣いたいと思う。時代性や、あるいは過去というものをなんとか理解しようとする姿勢を、僕はとりつづけたい。もちろん、理解できるかどうかは別として。

 映画『男はつらいよ』は映画である。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、その存在が大きく、かつ歴史的なものになっているだけに、フィクションでありながら、実在の人物(たち)として、過分な愛憎を受けているフシが、時折り見受けられる気がしてならない。逆に言えば、それだけ「寅さん」の存在は大きい。

 山田洋次監督はインタビューで「寅さんのような人間が現代に実は生きていられるっていうのはドラマの上であって、実際はこの現代って言うのはそんなことが許される時代じゃないんですよ」と述べているが(※1)、つまり1969年でさえも日本に残っていたかどうかわからないファンタジーの世界である。舞台となる「葛飾柴又」だって、「東京の外れに残る田舎──しかし、ひょっとしたら、まだ〈粋〉といった感覚のかけらが残っているかも知れない世界」(※2)、「葛飾柴又という現実の土地に名を借りた、架空の世界、つまり、ぼくら日本人が、今日あこがれてやまない心のふるさと」(※3)とされる、ユートピアのような場所だ。

 その前提に立たないで『男はつらいよ』を語るのは、フェアではないだろう。フィクションに対して単純に現代の視点や現代の倫理から物申したところで、それはある部分では通用するのだろうが、見当違いなことにもなりかねない。後の時代の人間として、そこには気をつけたいと思っているし、わきまえなければいけない部分だろうとも思う。「歴史上」とも言える対象を相手に、僕が有している感性は現代のものであるとしても、想像力を働かせることはできる。この部分はあくまで慎重に、どれだけ神経を遣ってもいいというのが、僕の基本的な態度だ。

 大上段に構えて『男はつらいよ』を語ることは、僕にはできない。知識も、見識も、感性も、経験も、論理の展開も飛躍も、いまの僕が持っているのは極めて乏しい資源であって、体系立てて語ることはいまの僕にはできないし、来年の僕にもできないだろう。だから、「『新しく書こうとすること』へ逆行」というのは、僕が自分自身の力不足を嗤った負け惜しみでもある。

 それでも、僕は書きたいと思う。

 僕にできるのは、できるだけフェアにあろうとすること。誠実さとともに、何より愛情を持ち続けること。書く内容は、みっともない、滑稽なものにしかならないかもしれない。でも、愛情だけは忘れてはいけない。愛情までも失ってしまえば、それは自分自身をも裏切ることになる。

 すでに『男はつらいよ』について、あるいは渥美清について書かれた本、文章というのは数多く存在している。知見に富んだ傑作もあり、はっきり言うとそれらを読むだけで十分だとさえ感じる。

 それでも僕が書こうとするのは、まず、それら傑作を多くの人は読んでいないだろうから。「新しく書くこと」の刺激が大きく、鮮やかでもあり、僕としてはその鮮やかだけでない視点を示したいから。一方で、僕も現代を生きる一人の個別の人間であり、どうしたってそこには現代を生きる一人の個別の視点が差し込まれると思うから。何より、僕が好きな『男はつらいよ』について、じっくりと腰を据えて対峙したいと考えていたから。

 はじめる前にクドクドと書くのは、いさぎよい姿勢とは言えないかもしれない。それでもクドクド書きながら自分の考えを言葉にし、決意を固め、プレッシャーをかける。その行為が、いまの自分には必要だと思い、そして現に、クドクド書いた。

 完結した長大シリーズ映画を後から語れるというのは、後の世に生きる人間の特権でもある。僕はその特権を、お腹いっぱい享受したい。


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※1:『みんなの寅さん from 1969』(佐藤利明、アルファベータブックス、2019)p48より引用

 『男はつらいよ』は最初はテレビドラマで、ドラマ版では寅さんは最終回に奄美大島でハブに咬まれて死んでしまう。それについて山田洋次監督が当時の考えを2008年のインタビューで答えたもの。テレビドラマ版は当時の視聴率としては特別好調なわけではなかったようだが、最終回放送後、この結末に視聴者からの抗議が殺到し、『男はつらいよ』は映画化されることになる。


※2:『おかしな男 渥美清』(小林信彦、ちくま文庫、2016)p253より引用

 渥美清の「友人・のようなもの」であった著者による、渥美清の「風貌姿勢」を描いた自伝的評伝。著者自身による膨大な記録と記憶で、「寅さん」以前からの渥美清について書かれた本。初出は雑誌『波』に1997年から1999年までかけて書かれた連載記事。


※3:『男はつらいよ 1』(山田洋次、立風書房、1973?)p279より引用

 映画『男はつらいよ』第1作〜第5作のシナリオ本の、山田洋次監督による「あとがき」より。