生活を取り戻せ

 生活を取り戻せ、というのが最近のテーマになっている。このフレーズが頭に浮かんでから数日して、何年か前に同じような政治スローガンがあったような気がしたが、取り戻せということは、何かが失われた状態であるという意識が自分の中にあるのだろう。
 失われた時期は、狭義ではお盆明け、広義では5月下旬だろう。お盆が明けてからは落ち着く時間がほぼなく、おまけにその時期には毎日のように21時を過ぎると微熱が出て、とにかくまいっていた。微熱は入浴すると下がった。放出されず行き場のなくなった熱が体内に籠ってしまっているという実感があった。
 歩く機会が激減し、やがて肉体の変化として現れた。あるとき風呂場で、足首からふくらはぎにかけてが異常とも思えるほど細くなっていることに気づいた。実際にはそこまで細さは変わっていないのかもしれないが、実感として自分の体とは思えないような変わりようだった。
 やろうとしていることに対して時間が取れないことの焦りや苛立ちもあり、精神的にもかなりきつかった。考えてみれば、朝から晩まで労働を含めてずっと家の中に居続けるというのは、軟禁状態に近い。

 生活を取り戻すいとぐちになるのは、疲労に関してだけではないだろう。けれども、疲労のバランスがその入り口になりうると、感じている。それほどまでに体の訴えは切実だ。
 パソコンに向かうことは、肉体労働でもある。現に僕は ─── 集中力が欠如している問題もあるけれど ─── 肉体的に痛みが出るため、あまり長い時間パソコンに向かい続けることができない。

 このタイプの疲労は、肉体的な疲労でもあり、同時に鍛えて克服することが難しい疲労でもある。"一種の"肉体疲労と言ったほうがいいかもしれない。同じ肉体疲労でも、運動をしたときの疲労とはタイプが異なる。
 であるならば、なおさら、うまくコントロールする必要がありそうだ。

 少し前に、その"一種の"肉体疲労がピークを迎えた日、夕方から出かける用事があり、ほとんど放心状態で家を出て、片道3,000歩の道のりを歩いた。歩きながら、体の内側に籠っていた何かがすっと抜けていくような感覚があった。お盆の時期、体内の熱が入浴することで発散されていたことを思い出した。歩き終わった頃には、ほとんど元気を取り戻していた。
 用事を済ませて家に帰ると、同じ室内の風景のはずなのに、心持ちはまったく違った。ふくらはぎには心地よい疲れと張りがあった。触ってみると、あの異常な細さもなくなっている。これが脚だ、という感覚があった。
 疲労のバランスが崩れていたのだなと思った。静の疲労と動の疲労、その両方がうまくバランスを取っていないと、肉体的で精神的な異変となって出てくる。うまく体を疲れさせてやることが、とにかく生活を維持することには必要なのだと感じた。
 それを感じることができただけ、半年間の準軟禁生活にも意味を見いだすことができる。疲労のバランスの舵取りをするのは、これからだけれども、とにもかくにも、体からの訴えに耳を貸さないと、折り合いまでの道のりは遠そうだ。