日記「ブーム」に思うこと

 日記が「ブーム」らしい。
 と聞くと、僕の中には素直な感心と、少しばかり引っかかる気持ちが入り混じる。
 僕は「ブーム」らしい日記をつけ、「ブーム」なのかもしれない日記本を作っているが、日記や日記本が「ブーム」だと考えたことはなかった。
 一年ほど前、日記をつけてみるか、と思った翌日に日記フェアの開催が発表され、本を作ってみようと思い、最初の日記本を作った。それからは、日記をつけることも本を作ることも楽しくて、日記をつけ続け、本もあと二冊は作ろうとしている。
 つまるところ、何も知らず、何も考えないうちにその「ブーム」の只中に飛び込み、その後も初期衝動を熱源として只中にい続けていて、日記が流行っているかどうかなんて考えてこなかったので、「ブームだよ」と言われると、「へー、そうなのか」と、単純に思ってしまうのだ。「そう言われてみればそうなのかもしれない」とも思う。否定する要素より、思い当たる要素の方が多い。

 でも、一方で、「ブーム」という言葉に、釈然としない思いがするのも事実だ。
 どうしても、その言葉には「一過性」の響きがある。つまり、「終わること」が前提とされている。実際に日記をつけて日記本を作っている身としては、「ブームだよね」と言われると、そこにネガティブな意味をより感じてしまう。「乗っている」気がないからなおさらだ。
 ちょっと待ってくださいよ、と思う。いや、別に誰も「君、日記ブームに乗ってるね」なんて言わないのだけど、「そのうちこの流行りも終わるけどね」ということを言外に感じてしまう。そういうつもりじゃないんですけど、と反論したくなる。
 僕にとって救いなのは、かつて何度か「讃岐うどんブーム」と呼ばれる現象が起きたのだが、その後それは「ブーム」ではなく「定番」となって定着したという事実を、近いところで目撃してきたことだ。もちろん、今後もそれが高いレベルで安定するという保証はないにしても、希望ではある。
 かつて、岡田喜秋氏は著作の中で、「私は文学の世界のなかで、「紀行文」というものが正式な座を占めるべきであることを以前から主張してきた」と書いた。1956年の話だ。いま、「紀行文」は、立派な座を占めているではないか。日記、あるいは日記本が、「ブーム」などとわざわざ取り上げられることのない時代が来るという、そんな未来だってあるのではないかと、僕は思う。

 まあ、THE BOOMの熱烈なファンとしては、「ブーム」という言葉を悪く書くことに、いささかの抵抗はあるのだけれど。

※引用は『新編 秘められた旅路』(天夢人/2017)p.8より