「関西弁」という呪文

 「関西弁」という言葉を目にするたび、幻を見る気分になる。
 四国に、「四国弁」は存在しない。「四国弁」という言葉を聞いた記憶もない。
 四国の言葉は、概ね似た区分に属してはいるものの、土地によってかなりの違いがある。特に香川の人間からすると、高知はまったく独特だと思うが、そんな香川も(日本一小さな香川県でさえも)西と東で言葉が若干変わる。島は島で特異な言語体系がある(あった)とも聞く。
 おそらく、「関西」の言葉も、地域により異なり、特に地元の人にはその差を強く感じる場面も多いはずだ。

 あらためて、「関西弁」。
 広い意味で、近畿地方の方言を意味しているのかもしれないが、はたして京都と神戸の言葉にどれだけの差異があるのかも、僕にはわからない。誰かが「関西弁」という言葉を使うたび、そこにはイメージとしてある地域の言葉が想像されているはずだが、それぞれ浮かんだ「関西弁」が同一のものであることは、ないだろう。
 おもしろいのは、「関西弁」という言葉は、その範疇にゆかりのある人たちにも、必ずしも忌避されていないらしいということだ。
 最初にも書いたように、四国に「四国弁」はない。「四国弁」という言葉が僕の耳に届いたなら、「そんなものはない」とすぐに訂正をするだろう。僕だけではない。「四国弁」という方言がないことを知っている四国の人は、半ば呆れたように、また半ば諦めたように、自身の方言について説明するかもしれない。
 僕は香川の出だが、香川の方言、つまり讃岐弁を「関西弁」と間違えられることに、強い抵抗がある。もちろんエリア外の人にとってかなり近しく聞こえる言葉だとは承知しているから、仕方のないことではある。しかしふるさとの言葉が「関西弁」と括られてしまうことを否定するのは、ある種の独立心であり、尊厳を保つ行為であり、「関西」への対抗心でもあるだろう。
 そう考えると、「関西弁」と言われてもおおらかでいられるのは、「関西」の懐の広さなのかもしれない。

 ただ、「関西弁」というのは便利な言葉でもあって、その人がどうやら近畿地方の言葉を話しているのはわかるけれど、その細かいエリアがわからないときには、「関西弁」という、ひどく曖昧な分類を、僕もつい口にしてしまうことがある。讃岐弁を「関西弁」と言ってしまうのと同じように。
 お茶を濁しているだけに過ぎないけれど、「関西弁」と唱えることで、何かわかったような気になってしまうから、「関西弁」というのは呪文のようなものなのかもしれない。