2月1日|『水木しげる漫画大全集』を読む日々 vol.019

 昨年の年始にどういう展望を持ったか、それは忘れてしまったが、今年の僕は年始に「今年は忙しくなる」と思った。

 まず、昨年12月に新調した手帳に、ひとまず目の前のやらなければいけないこと、やろうとしていることを書き出してみた。書き出したリストを見て、それをこなすための時間を思うと、ほとんど呆然としてしまった。

 言うまでもなく、呆然としようがしまいが日々は流れるもので、このひと月で書き出したいくつかは終わり、いくつかは残った。


 実を言うと、「『水木しげる漫画大全集』を読む日々」と銘打ちながら、あえて一ヶ月ぐらい一切読まない、というプランを用意していた。「読むという未来を約束しながらの読まない日々」というものが、一種のおもしろさを生むと思ったからだ。

 しかしながら、そのプランは早々に破棄することに決めた。理由はいくつかあって、一番大きいのは「早く読みたいから」。なにしろこの全集読破日記とは関係なく、僕はこの全集を2019年から少しずつ、冬眠前のリスのようにせっせと集めていたのだ。

 書くのに時間がかかる、というのも理由の大きな一つだった。内容に一切触れない日記にしようとも思ったけれど、せっかくなので少しぐらいは触れたい。となると、普段の日々を顧みても、早めに読んでおいた方がいい。何しろいつ何が起きて読めなくなるかわからないし、しばらく読めない日々が続くと、無用な焦りが出てしまうかもしれない。

 ところが結局、1月には3冊しか読めなかった。ひとことで言えば「忙しかった上に体調が思わしくなかった」のだが、そんなのはそれこそいつでも起きうることだ。何よりそれは(体調の不良は予期していなかったが)年始に予測していたことだった。

 とはいえ、時間がいくらでもあったらスムースに事が運ぶかといえば、そういうわけでもないということも、知っているのだけど。


 ところで、この『水木しげる漫画大全集』を読みはじめてから感じているのが(この全集読破日記をはじめてからではなく、読みはじめてから。つまり一昨年の10月頃から)、水木しげる的なものによく出会うようになった、ということだ。

 生活をしていて、水木しげるの影響を感じるものが目につく。あるいは、見たものを水木しげるに関係する何かに結びつけてしまう。

 先日、何気なく見た『水曜どうでしょう』の「四国八十八ヵ所Ⅱ」のDVDのオープニングアニメーションが水木風であり、前枠・後枠の衣装がゲゲゲの鬼太郎だったことには、驚いてしまった。そのことをすっかり忘れていたということもあるけれど、何より、妻が急に『水曜どうでしょう』が見たいと言ったのだ。DVDはずっと家にあったにもかかわらず、そんなことを言うのはこれがはじめてだった。

 引き寄せている、とさえ、思わないでもなかった。

 愚かな妄想だと思うだろうか?

 僕は、「馬鹿だねえ」とは思っても、愚かだとは思えない。


 もう少し筋道を立てて考えるなら、世の中には水木しげる的なもの、水木しげると結びつくものが数多あって、でもいままでの僕はそのことを知らなかった。意識もしていなかった。それが、水木的世界に飛び込むことで、〈水木センサー〉が強くなり、いままで意識していなかったことに目が向くようになった、ということだろう。

 けれども、何の予感もないタイミングで、いきなり水木しげる的なものが現れると、その偶然に〈神秘〉を感じてしまう。自分からそれに触れにいっているにもかかわらず、自分がそれを引き寄せているように感じてしまう。そして、その〈偶然〉が、何か大きな楽しみをもたらしてくれるのではないかと、ついわくわくしてしまう。日記をつけはじめたという〈偶然〉が、予期せぬ楽しみをもたらしてくれたように。


 1月はそうやって終わり、そして2月がはじまった。