読む記・観る記(1−前編)2月15日〜2月28日

『劇画漂流』上・下(辰巳ヨシヒロ / 講談社漫画文庫)

『劇画暮らし』(辰巳ヨシヒロ / 角川文庫)


 貸本マンガについての本や記述を読んでいると、必ずといっていいほど「劇画」という言葉が出てくる。貸本、あるいは漫画全般を語る上でのキーワードの一つのようだ。

 ところが、劇画といわれても、正直なところピンとこない。ただわずかに、さいとう・たかをを連想し、「ハードボイルド」「裏社会」といったイメージが先行するが、僕は『ゴルゴ13』さえ読んだことがない。

 しかし、調べれば調べるほど、「劇画」が漫画界に与えた影響というのは大きそうだ、ということがわかる。


 「劇画」という言葉の生みの親は、辰巳ヨシヒロだ。そこで、氏の自伝といえる作品を読んだ。『劇画漂流』の方は漫画で、『劇画暮らし』の方はエッセイである。『劇画暮らし』の前半と『劇画漂流』は書かれている内容がほぼ同じだが、『劇画暮らし』後半は『劇画漂流』では描かれなかった貸本消滅以降のエピソードが描かれている。

 新しい表現を生み出し、それを従来の子供向け漫画と区別するために、その表現方法そのものに新しい名前を付けるべく造られたのが「劇画」という言葉だった。

 映画のようなコマ送り、コマの大きさやセリフの量で読む側の視線をコントロールし、メリハリをつけるなど、著者の試行錯誤や狙いが、両著書には描かれている。それまでの漫画を変革するという意気込みが、エネルギーが、強く感じられる。

 それにしても、劇画が生まれた当時(1950年代後半から60年代にかけて)、著者や、著者と切磋琢磨したのが、20歳そこそこの若者だったということに驚く。これはトキワ荘の漫画家たちにも同じことがいえるが、ある意味で、この本は〈劇画側から見た「まんが道」〉といえると思う。




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『貸本マンガと戦後の風景』(高野慎三 / 論創社)


 劇画が広がりを見せた理由の一つとして、舞台が貸本マンガだったからということもありそうだ。

 当時は青年向け漫画雑誌がなかった。貸本は版元による内容への介入が少なく(場合によってはほぼなく)、売れればという条件付きではあるが、描きたいように描くことができた。また、雑誌の漫画のページ数が極めて限られていたのに比べ、貸本は単行本がベースで思い切った実験がしやすかった(のちに劇画自身が短編誌ブームを生むのではあるが)

 『貸本マンガと戦後の風景』の中で繰り返し述べられていることだが、当時は「高度経済成長」に向けて、若年の労働者が多く存在した。1960年、高校進学率は60%を下回っていた。中学卒業後、集団就職のために地方から都市に渡った人も多かった。貸本マンガは、そういった若いブルーカラー(非学生ハイティーン)に支えられた側面があったようで、まさにそれはタイトルにあるように、貸本マンガというのは、戦後すなわち終戦から高度経済成長までという時代の中に配置して考えなければいけない文化だったのだと感じる。

 〈戦後〉の上に成り立っていた貸本マンガが文化として存在しえたのは、20年にも満たない短い期間ではあった。しかし、そこから現代の漫画に連なる潮流が生み出され、さらには少なくない数の漫画家を後世に残し、後世の少なくない数の漫画家に影響を与えたのだと思うと、興味は尽きない。




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『水木しげる漫画大全集』通巻007~010(水木しげる / 講談社)


 通巻010の巻末資料に収められた読者との交流コーナー(貸本では販促の一環として、またページ合わせとして、読者からの感想や質問に対し、著者が返事を書くコーナーが設けられることがあった)で、水木しげるは自身のことを「劇画家」と称している。水木しげる自身、劇画という表現にかける期待も大きかったようで、そのことが劇画に自信を失いかけていた時期に励まされた、と劇画の生みの親である辰巳ヨシヒロが回想している。

 この交流コーナーの時期(1964年頃)は、劇画という言葉が一般には普及していなかったと思われるので、「劇画」は貸本の世界のいわばスラングの性格が強かったと思われる。それゆえ、劇画の側に立つ水木しげるは、あえて「劇画家」ということを強調したのかもしれない。

 辰巳ヨシヒロによると、さいとう・たかをは劇画を漫画とはまったく異なるものとしてとらえていたようだが、辰巳ヨシヒロ自身は劇画は漫画の範疇に収まるものとして考えていた。いまでは劇画という言葉自体を聞くことがほとんどないが、ある時代までは漫画への対抗馬・対抗手段として意識されていたようで、水木、赤塚、手塚各氏の娘たちの座談会を収めた『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』では、手塚治虫の娘である手塚るみ子氏が、「水木先生は劇画の世界の方で、手塚とはある意味でライバル関係だったじゃないですか」と語っている。

 劇画という言葉があまり意識されなくなったのは、劇画が廃れたのではなく、漫画の世界に劇画の要素が当たり前のものとして取り入れられ、ことさら「劇画」と言わなくても、その精神が根づいた証なのかもしれない。逆にいえば、辰巳ヨシヒロが「新しい貸本まんがの確立を目標に劇画を錦の御旗にして、雑誌まんがに対抗したかった」と書いているように、草創期には「劇画」という言葉を使うことで、水木しげる自身、自らを鼓舞していた面もあるのかもしれない。



後編へ続く

(後編は3/20更新予定です)