3月17日|『水木しげる漫画大全集』を読む日々 vol.040

 僕はいまのところ絵を描かないので、誰かの絵を見て僕が絵のスタイルを変えるということはない。筆をとらずとも絵のスタイルというものが僕には備わっていて、そこに影響を受けるはずだ、という議論をはじめると別の話になってしまうので、とにかく、ここではそういうことにしておく。水木しげるやつげ義春、手塚治虫の半世紀以上前の絵を見ても、出たばかりの『よつばと!』を読んでも、何の躊躇もなく、その絵を受け入れることができる。

 一方で、僕はものを書くので、文章や言葉を読むと、多かれ少なかれ影響を受けうる。小説、エッセイ、紀行文、学術書、新聞記事、漫画のセリフ、戯曲集、CDの歌詞カード、ツイッターの短文に至るまで、僕の書く文章に何らかの影響を与える可能性がある。絵と違って、これはこれ、それはそれ、と割り切れられない部分がどうしてもある。

 日々、目にする文章には、独特のクセがあるものもあれば、先鋭的なものもあれば、村上春樹の言葉を借りれば「あまり上等じゃない」ものもある。どんな文章であれ、あるいは〈文章らしきもの〉であれ、他者の書くものに晒され続けると──特にそれが良き影響をもたらさないものであればなおさら──自分の文章の壁面がポロポロと剥がれていく感覚に陥る瞬間がある。

 なので、定期的に〈体内の文体〉をチューニングしている。その際、僕は宮脇俊三の本を読む。質実剛健といった趣の、適度な密度にユーモアを兼ね備えた宮脇翁の文体を通り抜けることで、僕は自分の文体が洗われる感覚を得る。付加するために読むのではない。余計なものを削ぎ落すために読む。もちろん著書そのものが、何十回もの読書に耐えうる代物である。

 実家の近くに、うどん屋があった。僕にとっては、その店の味がうどんの味の基準だった。まさに舌をチューニングするために、実家を離れてからも帰省のたびに通った。その店は数年前に閉店してしまった。それ以来、僕は、ことうどんについては、地図と方位磁針を失ってしまった。基準を失うということは、とても不安なものだと痛感した。

 本は、残るところがいい。生きている限り、僕は宮脇俊三の本を読むだろう。読みたいと思ったら、読むことができるだろう。あるいは、僕が死んでも、誰かが読み継いでいくに違いない。そう考えると、僕は歴史の中で生かされていると感じるし、僕自身が歴史を繋ぐ存在であると感じることもできる。もちろん、そんなムズカシイことを考えずとも、全幅の信頼を寄せる文章があるだけで、日々を安心して生きていくことができる。それはとても、幸せなことだと思う。