5月11日|『水木しげる漫画大全集』を読む日々 vol.049

 電車に乗ったら自分以外の乗客全員がiPhoneを操作していた、という小説のシーンを考えたことがある。2010年頃の話だ。思いついたときはディストピア的なシーンとして考えていたけれど、使わないうちに普通にありうる光景になって、全然怖くなくなってしまった。

 今日、電車に乗ったら、多くの人が本を開いている光景に出くわした。向かいの7人掛けで4人、僕が座っている7人掛けで僕を含めて3人、割でいうと50%が本を読んでいた。見渡してみると同じ車両の他のエリアでは本を読んでいる人はほとんどおらず、下車してから他の車両の様子を見てもほとんどスマートフォンをいじるか寝ているかだったので、どういうわけか僕の乗った車両の一部のエリアだけ、例外的に読書をしている人が多かったようだ。悪い気分ではなかった。

 僕の斜め向かいの人は、僕もいずれ読みたいと思っているある本を読んでいた。たくさんの付箋が貼られている。細めのスマートな付箋で、使い分けているのか特に意味はないのか、色とりどりだった。


 以前、この全集読破日記の発起人である岸波龍さんが、「ドッグイヤー」について書かれていた。僕はそういう手法を知らなかったので、思わずへえと唸ったが、実践はできないでいる。でも知らなかった人には参考になるところがあるかもしれないので、ぜひご一読を。

 実践はできないでいるというか、実をいうと僕は本に書き込むことも、付箋を貼ることもしない。開き癖がつくことだって好まない。「来たときよりも美しく」という言葉があるが、できることなら「買ったときより美しく」したいと思っているし、できないのなら「できるだけ買ったときの状態に保ちたい」と思っている。

 理由は、最も端的な言い方をするなら、書いたり貼ったりするのが「生理的に受け付けないから」だ。これはもう、「イヤなものはイヤ」だから、理屈ではない。

 あえて理屈を述べるなら、私物であるにもかかわらず、僕は自分の本が公共物になりうる可能性があると思っているのだと思う。公共物になるかもしれないから、汚したくないし、傷めたくない。

 社会に出てから、本を「資料」として「使う」ことがほとんどなかったということも大きいだろう。ただ単純に「読む」ことができればよかったし、事実、ただ単純に読んできた。大した数の本を読んだわけでもなかったので、ある程度はどの本に何が書かれていたかを覚えていて、後になって必要になればその本を読み返せばよかった。たまたま僕はそうであっただけで、そうはいかない人だっているに違いない。


 昨年、はじめて読書会というものに参加した。

 すでに一度読んでいた本だったが、さすがにこのときはただ単純に読むだけでは不足だと思った。とはいえ、書かない折らない付箋を貼らないとなると、別の方法を考える必要がある。

 最初はしおりを挟んでみた。挟みたい箇所が多くてすぐに断念した。

 結局、必要な箇所をノートに手書きで写すことにした。これは受験勉強と同じで、記憶するという意味ではとても効果があった。必要な箇所だけを抜き出しているので、見るにしてもわかりやすかった。

 だが、そのぶんだけの労力はかかったと思う。はじめての読書会ということで力みもあったのかもしれないが、日常の中でこれをやるのは大変だというのが、正直な気持ちでもあった。

 新しい方法を考えなければいけないのかもしれない。何か画期的な方法が"発見"されないだろうか。同じ本を二冊買う、というのはナシで。



写真は本屋イトマイのチーズケーキ(テイクアウト)。