5月20日|『水木しげる漫画大全集』を読む日々 vol.052「生への執着、星野源、"他人"への祝福」

 昨年、僕が最も多く聴いたのは星野源の音楽だった。ラジオも聴くようになった。活躍ぶりは僕がいうまでもなく、苦しいことの多かった昨年は、僕自身、その活動に支えられることや、励まされることが多かった。それまでも音楽は聴いていたし、著作も読んでいたけれど、ラジオを聴き始めたのは昨年の年明けからだった。「ファン度」がぐっと上がったし、見方に少し変化があった一年でもあった。


 つい先日、昨年出した自分の日記本のシリーズを最初から読み返した。僕の日記本に、人名が出てくることはそう多くない。その中で、数えたわけではないが、おそらく「星野源」という名前が、最も多く登場した人名なのではないかと思う。読み返してあらためて気がつくことは多かったが、その一つが、いたるところで「星野源」の名前が出てくることだった。

 「ダ・ヴィンチ」の2020年12月号に掲載された星野源のエッセイ「いのちの車窓から」を、あらためて読んだ。「出口」というタイトルのその回は、激動であり、ストレスフルであった2020年を締めくくるエッセイで、写真の笑顔とは裏腹に、鬼気迫るものだった。



 私は元気で、未来は明るく、現在は楽しく、毎日絶好調であるというつもりはさらさらない。無理に明るくする必要はない。矢継ぎ早に辛いことや落ち込む出来事が驚きのフレッシュさを持って起き続け、意味がわからず納得がいかないことばかりのこの世の中に生きていて、最悪の気分でいることはむしろ素直で正常な反応である。繊細であればあるほど、現代は生きにくいだろう。

 堂々と思っていい。私は最悪な気分だと。私はもういい加減うんざりだ。私は今生クリームたっぷりのパンケーキを食べないとやってられない。そう正直に感じていいのだ。え? 今ダイエット中だから無理? いやいや、無理する必要はない。「出口がない」と勘違いしない為にも。

──星野源「いのちの車窓から46」(「ダ・ヴィンチ」2020年12月号)




 昨年の3月後半から5月頃にかけて、僕は怒っていたのだと、自分の日記本を読み返して、あらためて感じた。新型コロナウイルスの脅威が急速に日本に広まり、緊急事態宣言が出た時期だ。

 僕が怒っていた相手、それに例えば国や自治体といった行政の愚劣さが含まれていなかったとはいえない。でも、僕が最も怒りを感じたのは、「命よりも大切なものがある」という意識や振る舞いを見せられることであったと思う。特定の誰かに怒りを覚える瞬間は、そう多くなかったかもしれない。しかし、「命」と何かを、例えば「経済活動」といったものを天秤にかけるような表現があったとき、僕は反射的に強い拒否反応を示した。反対の声を上げた。それは僕の性格からいうと、ほとんど例外的なことだといっていい。

 僕はここに、命を落としかけたという、僕自身の特異な個人的経験が関係しているのではないか、と分析したことがあった。



 思うに、死にかけた経験のある人間は、生きることを最優先にする。生きることに執着がある。そして死にかけた経験のある人間は、楽天的だ。たぶん、生きてりゃなんとかなるということを、実感として持っているからではないかと思う。同時に、生きていなけりゃどうにもならないということが、骨身にしみているからではないかと思う。

──鍋島讃『言葉に棲む日々2 それでも日々に踊る』p.82



 でも、本当にそうだろうか?


 「生きてりゃなんとかなる」というのが、僕の人生で得たほとんど唯一の確信だ。楽天的に過ぎるのだろうか? 生きることを最優先にし、生きることに執着する。それは死にかけた経験のある人間だけが特権的に持つことができる感覚なのだろうか?

──鍋島讃『言葉に棲む日々3 ここが日々なら』p.27



 そんなわけないでしょう?




 人は案外あっさり死んでしまう。くも膜下出血で倒れた時、それを身をもって知った。死というものに一瞬タッチして、運よく、ありがたいことに引き返せた。そんな感覚だった。

 (中略)

 死の向こう側にあるものは、ない。何もかもがない。あるのは無だけである。死の向こう側に、カッコいいも面白いもない。安易な魅力なんてあそこには一切ない。

 安らぎも、温もりも、本当はこちら側にあるのだ。

 生きるのは、辛い。本当に。

 だけと、辛くないは、生きるの中にしかない。

──星野源「いのちの車窓から46」


 僕は星野源のこの言葉を支持する。



 星野源のラジオは、アクがなく、時に笑っちゃうほど下品で、平和なものだ。コロナ以後は、そこにこちらが緊張するほどの覚悟が見えることもあったし、やはり春頃にはずいぶんと怒り、ストレスを感じている様子も見えた。それでも明るさとくだらなさを前面に出し続けていた。はらはらすることもあったが、聴く側として安心を委ねていたのが正直なところだった。

 そんな星野源が書いた、それまで見せなかったようなネガティブな思いを吐露した文章に、僕は冷や汗が出た。

 「うちで踊ろう」を発表して、ずっとフロントに立ち続け、あるいは立たされ続け、最高のエンターテイナーであると同時に、それゆえ抱えた苦悩やフラストレーションは、僕がいくら想像しても足りることはないほど大きいのだと、胸が苦しくさえなった。


 星野源の結婚発表を、僕は無条件にうれしいと思った。氏が幸せなのであれば、祝福したいと思った。

 僕たちは誰だって他人同士であり、別の人間でしかない。けれども、ただの他人だと突き放そうとは思えない人がいることを、あなたが幸せならそれだけで僕も幸せと思える人がいることを、うれしく思いたい。きっとそうたくさん出会えるわけではないから、なおのことそう思う。