読めば読むほど、ねずみ男の魅力に惹かれていく。
ねずみ男というトリックスターの登場が、鬼太郎の物語を、あるいは水木しげるの世界を広げ、充実させていったということは、変え難い事実であると思う。
魅力ある脇役というのは、数多く存在する。
たとえば、『ダイの大冒険』のポップ。小さなの武器屋の両親の元に生まれ、正義のヒーローに憧れながらも弱く臆病な心を持った、「ただの武器屋の息子」だった。
彼は特別な血を受け継いだわけでも、かつて勇者とともに世界を救った父母の間に生まれたわけでも、正義と悪の両方に育てられた戦闘のプロでもなかった。恐怖には怯え、時には逃げさえして、恥じらいの気持ちと嫉妬心と虚栄心を持った存在だ。
だからこそ、読者はそんな〈人間の代表〉としてのポップに、やきもきし、ハラハラし、怒り、悲しみ、そして活躍に心打たれるのだった。
僕はよく言うのだけれど、『ダイの大冒険』の本質は「ポップの成長譚」で、「ポップの成長」が底流にあることが、物語を充実したものにしている。
ねずみ男は、人間と妖怪の間に生まれた「半妖怪」だ。彼もまた、独自の世界を持った妖怪たちの中において例外的に、〈人間の側面〉を凝縮したような存在として振る舞う。
けれども、ねずみ男はポップではない。
なぜなら、ねずみ男は成長しない。徹頭徹尾利己主義であり、お調子者で、欲に汚く、強いものには巻かれ、反省をすることがない。
その「成長しない」ことが、ねずみ男の魅力なのだと思う。「懲りない男」と言われ続け、うとまれ、うんざりされながらも、結局は鬼太郎の元に帰ってくるのがねずみ男であり、そして最後には許されてしまうのが、ねずみ男という存在なのだ。
変わることで人を惹きつけるポップ、変わらないことで人の心を離さないねずみ男、両者は正反対の魅力を持っている。
味方にもなり敵にもなり、主人公を助けることもあればピンチに追いやることもある──こう考えたときに、アニメ『ルパン三世』の峰不二子のことが思い浮かぶ。あるいは立ち位置としては、峰不二子とねずみ男は近いところにいるのかもしれない。
ともに利己的であり、欲望に弱く、甘言を巧みに用い、時には痛い目を見る。それでも位置付けとしては、峰不二子はルパンの一味と目され、ねずみ男は鬼太郎ファミリーに属している。
もちろん、絶世の美女としてルパンの永遠の憧れである峰不二子と、世界一不潔な男・ねずみ男は、美醜という点では正反対だ。おならや口臭で相手を気絶させたり、ゴミ箱を漁って魚の骨を食べる峰不二子なんて想像できない。コミカルな不二子ちゃんは許せても、彼女に汚れ役を担わせることはできないだろう。
立ち位置は似ていても、役割は違う、と言い換えられるかもしれない。
ねずみ男は、時に頼りない味方に、時に愛すべき敵になる。
愛すべき敵キャラといえば、その筆頭は、なんといっても「ばいきんまん」だろう。
正義の味方・アンパンマンに対しての、敵役としてのばいきんまん。
ばいきんまんが〈懲りない男〉であり、〈まっすぐな敵役〉であり続けることが、『アンパンマン』が子どもたちのあまりに高い支持を受け続けている一つの大きな要因であるのは、間違いのないことだろう。変わらないことで物語を支える存在となっているという意味で、ばいきんまんとねずみ男という不潔な二人の男は共通している。
ちなみにアンパンマンのホームページでは、ばいきんまんも含めた全てのキャラクター紹介は「なかまのしょうかい」のページに載っているが、ばいきんまんもまた、紛れもなく「アンパンマン・ファミリー」の一員だ。
初期の鬼太郎は、決して〈正義の味方〉ではなかった。貸本時代の『怪奇一番勝負』という話で人間を三人も殺すのは例外にしても、「悪い妖怪を退治する人間の味方」という性格を帯びるのは、少年誌での連載が始まってからだ。
それまでは、とりたてて使命感があるわけでもなく、少なくとも〈人間の味方〉ではなかったし、鬼太郎自身に利己的な部分があった。人間をあの世に追いやることにも、さほど躊躇がない。
やがて鬼太郎が正義の味方としての役割を担うようになる中で、ねずみ男は活躍の舞台をどんどんと広げることになる。正義の味方が動けない部分、とれない行動は、ねずみ男の独壇場である。
〈不自由なヒーロー〉に対しての、〈自由すぎる狂言回し〉として、ねずみ男は至る場面で顔を出し、物語の起点となることになる。
正義が悪を退治するという一方通行な物語では生まれなかった奥行きが、ねずみ男によって醸成される。あっちに行ったりこっちに行ったり、妖怪と人間の間をいつもふらふらしている「半妖怪」が、正義の心に燃えるヒーローを冷やかしたり、タダ働きに呆れたりしているのを見ると、僕はいつも、安心する。
この偉大なる憎まれ役が、〈鬼太郎サーガ〉を支える屋台骨の一つであって、その意味では、ねずみ男は水木ワールドの象徴と言えるのだと思う。