9月4日|『水木しげる漫画大全集』を読む日々 vol.065「本を分かち合いたい」

 高校時代から大学時代にかけて、図書館によく通った。

 高校時代には校内の図書室に行ったり、学校帰りに市の図書館まで自転車を走らせたりしていた。

 またこの頃、図書館以上に通ったのは、県下でも屈指の在庫数だった書店で、学校から近かったこともあって足繁く通っていた。もし「知の地層の圧倒的な厚さを見せつけること」が図書館の持つ機能の一つであるなら、放課後の書店通いが、その役割を部分的に受け持ってくれていたように思う。


 図書館に最も親しんでいたのは、大学生の頃だった。一時期、開架にない戦前・戦中の本を読む必要があり、連日書庫に入り浸ったことがあった。図書室はそもそもが静かな場所だけれど、書庫はいっそう静けさが増す。たまに、司書の人や、自分と同じように書庫内で本を探している人を見かけることがあった。知らないその人に、どこか連帯感を覚えたのを思い出す。音の響かない、天井の低い、圧迫感のあるその空間で過ごした時間が、何もかもを実りと感じた大学時代で、もしかしたら最も実りある時間だったかもしれない。


 家にある本を、もっと開いた場所に置きたい、そんな思いを抱くようになった。まだ「計画」といえるほどはっきりとはしていないけれど、「構想」程度のことは考えている。

 三年前の自分にそんなことを言ったら、とても賛同されなかっただろう。潔癖症の気があるので、自分の大切な本を不特定の他人に触らせることなど、許さなかったはずだ。

 時がたち、考え方が変わってきた。所持する本が増える一方で、読まれないでいる本も数を増している。これは実にもったいないことだ、と思うようになった。誰か読みたいと思う人がいるなら、その「誰か」が手に取れる環境を作った方がよいのではないか。

 「誰か」が知らなかった本に出会う機会を増やしたいという思いもある。本に出会うというのは多分に偶然が絡む。本屋や図書館で知らない本に出会うことがあるように、他人の本棚から知らなかった本に出会う機会があってもいいと思う。そういう機会が多いと、きっといいことがあるのではないかと思う。


 せっせと溜め込んできた本という財産。分かち合える人がいるのなら、その財を分かち合いたい。いま、その思いが強い。