買うことと借りること、あるいは図書館で本を借りる理由

 僕は普段、図書館に行くことがほとんどないため、図書館に行くこと自体がイベントになる。本を借りるとなれば、それはもう「一大決心」という感じだ。というか、大学を卒業してから図書館で本を借りたことは(たぶん)なかった。

 買うことには一切躊躇しないのに、借りることがどうしてこんなにハードルが高いのか、不思議だったのだけれど、先日、家から少し離れた図書館で(たぶん)15年ぶりぐらいに本を借りて、なるほど買うことと借りることは全然別の話だったのだなと、思わぬ発見をした気持ちになった。

 それは、図書館で本を借りるある程度の人(それが何割ぐらいかはわからないけれども)は、「返したい」から借りるのではないか、という発見だ。

 借りることで「返す」という義務が生まれる。言い換えれば、「関係が継続する」ということでもある。「返さないといけない」ということは、「また図書館に行ける」というわけなのだ。


 僕が高校生や大学生の頃は、CDの貸し借りというのがけっこうあった。経験のある人は頷いてくれるのではないかと期待するのだが、これって、借りたCDを聴く楽しみと同時に、返す楽しみがあったように思う。「返さなきゃいけない」は、「またその人に会える」こととイコールだった。

 仲のいい友達が相手なら返すときの会話が楽しいし、あまり親しくなかった人が相手でも、そこから関係が深められるかもしれないという期待があった。それが憧れている人や恋心を抱いている人ならなおさらで、会う口実を作るためにCDを借りたり貸したりするということだって、世の中にはあったはずだ。CDを聴きたいという実用的な理由の他に、その人との関係を継続するという理由で(これもある意味で実用的ではあるけれど)、貸し借りが行われていた──という側面も多分にあったと思う。

 これ、同じCDを聴くのであっても、買って聴くのとは意味合いが違いますよね。場合によっては、持っているCDを人から借りるということだって、別におかしな話ではない。


 『水は海に向かって流れる』(漫画)に、「もうこれでこの人に干渉する義務も権利もなくなってしまった」というモノローグが出てくる。恋心を抱いている相手との約束を果たした後の主人公の独白だ。

 ものを買うというのは、基本的にそれで完結した話なので、終わろうと思えばそこで自分と相手の関係は終わる。あるいは、続けたくても続けられない場合もある。売り手がものを提供し、買い手が対価を支払う、という約束がそこで果たされてしまっているというわけだ。

 でも、ものを借りるということは、それだけでは完結しない。返すという約束が残る。これは、関係を続ける義務がある、言い換えるなら、関係を続ける権利を有している、ということだ。けっこう、心浮く話だとは思いませんか。


 三年ほど前から、本屋さんに本を注文して取り寄せてもらう機会が増えた。本屋さんのウェブショップで本を買うというのではなく、取り寄せてもらった本が本屋に届いたら取りに行くのだ。クリックするだけで自宅に本が、というかあらゆるものが届く時代に、無駄だとか、非効率だとか思われるだろうか。

 それとこれとは話が別なのだ。


「あるいは僕は、本屋へ行く理由を作るために、本を取り寄せてもらうのかもしれない。あるいは届いた本を会計してもらい、現金というこれもまた実感のある形で支払いをし、ごつごつとした固さと重さを感じながら持ち帰る、その一連の工程さえも読書体験に含めているのかもしれない。重さを感じ、身銭を切るところから、読書は始まる。そこには手ごたえがある。」


 と、2019年12月に書いたことがあった。あらためて読んでみて、「よくわかるなあ」と思った。いや、そりゃ自分が書いたことなので、わかるのは当たり前なのですが。

 これも「返すことが楽しくて借りる」というのと、同じ話です。わざわざ本屋に行く理由を作ってしまうのだ。

 僕はけっこう怠惰なところがあるので、やらないでいいんならやらないでいいやとなりがちだ。欲しい本があるのなら、家にいてネットで買ってしまった方が楽ではある。以前は日常の行動範囲にいい本屋がいくつかあって本屋で本を買うことが多かったのだけれど、ここ数年は「散歩がてら」というレベルではなかなか楽しい本屋に行くことはできず、だんだん楽な方へと流れていた。

 でも、数年前、好きな本屋で本を買うことにも大きな楽しみがあるとあらためて気づき、それ以来、僕はできるだけ本屋に足を運んで本を買おうと思った。それでも放っておくとなんやかやと理由をつけて行かなくなってしまうので、強制的に本屋に行く用事を作ってしまおうと考えた。

 本を注文するというのは、本屋に行くきっかけの一つにすぎない。もちろん読みたい(けれども置いていない)から注文するのであって、その点でわかりやすい実益も兼ねているのだが、注文した本を受け取ることよりも、取りに行ったお店でどういう本に巡り合えるかの方が、楽しみなのだ。

 注文した本は受け取ってお金を払ってしまえばそこで約束が完結してしまう。一方で、どういう本があるのか棚を子細に見て回るということには、終わりがない。


 実をいうと、僕は今の高校生が生まれた頃ぐらい以来に本を借りてみて、「返しに行かなければいけない」という事実に、けっこうわくわくした。

 普段住む町を離れて、誰も知っている人の住んでいない住宅地や団地や商店街や駅やバス停を通り抜けて、こんな細い道を車が通るのか! とか、この団地は規模が大きくて自分が住んでいた団地とは大違いなんだけどそれは自分が幼少期しか住んでいなくて全貌を知らないからだろうかとか、やっぱりアーケードの商店街は空が見えない独特の雰囲気があっていいよなあとか、でもアーケードじゃない商店街も開放的でそれがなぜだか落ち着きを奪っていいよなあとか、ごみごみした駅前商店街からひょっこり駅が現れるのはおもしろいなあとか、バスに人が吸い込まれて人が吐き出されるのは見ていて飽きないなあとか、そんなことをまた感じられるチャンスがあるのだと思うと、早く返しに行きたい! となるわけだ。

 本を借りても返しに行くその日までにその本を読み終えているかは自信がないのだけれど、宿題のようにせっせと読むもよし、返すやいなやまた借りるもよし、持って帰っても読まないんだったらいっそその図書館で読んじゃってもよし──到底過去に誰か借りたとは思えない、でも匂いだけはしっかり「図書館の本の匂い」になっているその本のページをめくりながら、そんなことを思った。