公衆電話、フィルムカメラ、原稿用紙

 先日、auで大きな通信障害が発生したとき、固定電話や公衆電話を使ってくれとアナウンスがあったけれど、最近の若い人で固定電話を引いている人は少ないだろうし、公衆電話だってどんどん姿を消している。

 その少し前に近所を散歩をしていたら商店の脇に置かれた公衆電話にもうすぐ撤去されるという貼り紙があり、夜にぽつんと光っている様子が物哀しくもあった。公衆電話もその直後に脚光を浴びるとは思っていなかっただろう。もしかしたらあの光はスポットライトになったかもしれなかったのだ。公衆電話さんも「撤去される前に言うてよね」と思っているかもしれない。


 固定電話の役割が携帯電話に移り変わったように、フィルム式のカメラというのもほとんど見なくなった。僕はまだ生まれ年的に「フィルム」というものを触ってきた年代であるけれど、自分で所持したことがあるのはデジタルカメラだけだ。フィルムの現像を頼む町の写真屋も近所では姿を見なくなり、いまでは自分がフィルムで写真を撮ってもどこで現像したらいいのかわからない。少なくともいま素人でフィルムカメラを現役で使っている人は、「かなりのカメラ好き」といって差し支えないだろう。

 デジカメは電池の心配があるけれど、枚数を気にせずに写真が撮れるという大きすぎる利点がある(いうまでもないことですね)。とある写真家がスポーツ中継で話していたのによると、いまや競技中に無尽蔵に写真を撮りまくり、そのデータが瞬時にサーバーにアップされ、その中からデスクが使う写真を選び、競技中にどんどん写真が公開されるということにもなっているらしい。

 ただしその写真家がいうには、いくらでもシャッターが切れる代わりに、かつてのような「この一枚は失敗できない」という緊張感は薄れているという。「一球入魂」のような思いを込めることが少なくなっているということで、もしかしたらそれは撮られる写真にも影響しているのかもしれない。

 フィルムを保管していたフィルムケースというのはけっこう使い勝手がよくて、よくボタンなんかをあれに入れて保管していた記憶がある。ああいう「放っておいても勝手に増えていく何かと役に立つもの」というのは、いまは何かあるだろうか。


 原稿用紙を使うことも少なくなった。少なくなったというか、僕はもう20年近く原稿用紙そのものは使っていない。

 文章を書くときはパソコンで打ち込むか、ノートに手書きする。手書きした場合でも最終的にはパソコンに入力するので、原稿用紙に清書するということもない。

 パソコン(以前はワープロというものもありましたね)に入力する利点は修正や編集が容易であることが大きなところだけれど、慣れてしまえば手書きよりも圧倒的に速いという点も重要だ。頭に浮かんだことを淀みなく文字にできる。手書きではどうしたってこうはできない。

 手書き原稿が「考えながら書く」のに対してパソコン原稿は「書きながら考える」ものであるといえるかもしれない。
 それは日頃からその両方に取り組む僕の実感でもある。どちらの方がいいものが書けるのかというのは検討の余地があるし、それに、どちらにしたって大したことはないといわれないように、頑張らないといけないのだけど。