自分は神経質だなと思う瞬間が、日々の中にいくつかある。
その一つが「におい」。
昔から慢性鼻炎でティッシュが手放せないわりに、耐え難いにおいというものが存在する。そのにおいは、鈍い嗅覚の間を縫って、いつだって鼻腔の奥深くに届いてくる。こういうのはなんだかソンしているような気がする。
例えば、日本を代表するインスタントラーメンのにおいがダメだ。これは幼き日のトラウマによるもの。
ところが妻はこの日本を代表する袋入りインスタントラーメンが好物で、時々食べるものだから大変だ。そのにおいを敏感に察知するたび、僕は台所に走って換気扇のスイッチを入れ、居室の窓を開け、室内の空気を流してにおいを薄めようとする。
できれば僕だって腹時計が鳴っていると感じたら「お腹が、チキンラーメンと言っております」と高らかに宣言し、「チキンラーメンは、自分で作ります」と独りごちながら、その朝ドラにもなった日本を代表する袋入りインスタントラーメンをどんぶりに入れてお湯を注ぎたいのだけれど、残念ながらその機会が訪れることはないだろう。
その代わり、というわけではないのだけれど、僕が一番好きなカップ麺は「シーフードヌードル」で、これは逆に幼き日の心温まる思い出によるものだ。そういう意味で、バランスは取れているというか、なんというか。
納豆を食べ終わった後の皿のにおい、というのもダメだ。納豆そのものは大好きなのに、食べ終わった後のにおいは耐え難い。もしかしたら世の中には「あのにおいが最高」という人がいて、わざわざ食べ終わりを食卓に残す人がいるのかもしれないけれど、僕はすぐにシンクに下げてとりあえず水を注いで臭いものに蓋をしてしまう。
離れた場所にいても耐え難いにおいというのはなぜだか鼻に届いてしまうので不思議だ。もっといいにおいばかり届けばいいのに。
耐え難いという話からは少し外れるのだけれど、においにおける個人的な謎の一つに、「ブックオフのにおい」がある。なぜどこも同じにおいがするのか、そしてあれは何のにおいなのか。
もう何年もブックオフの店内に入っていなかったのだが、今年になってからあらゆる手段で探している本(もちろん絶版品切れ)が出てきて、かなり久しぶりにいくつかのブックオフに入った。入った瞬間、「そういやブックオフってこんなにおいだったな!」と強烈に記憶がよみがえってきた。「こんなのあったな」と、特に愉快でもなく思い出す記憶。いまVHSを再生したら同じような気分になれるかもしれない。
あれはブックオフのにおいとしかいえないにおいだ。一般の古本屋のにおいとも違うから、あのにおいの素はいったい何なのだろう。だいたいどこのブックオフでも同じにおいがするというのも不思議だ。
あれ以上進行すると「臭い」となってしまう、ギリギリの境界にあるにおいだと思う。「におい」と「臭い」の違いを述べよという問題が出たら、あそこまでが「におい」、あれ以上になったら「臭い」と答えれば正解です。
人のにおいなのかとも思ったが、想像するに、インドにあってもパリにあってもブックオフは同じようなにおいがしていそうだ(実際にパリには店舗があるんだそうです)。とすると、あれはまさに「ブックオフ的なるもの」が発しているにおいなのかもしれない。
まあ実際はいろんな家にあったいろんなものが集められた結果のにおいと考えるのが自然なのだろう。いろんな色を混ぜたら最後には灰色になるように、いろんな家のにおいを集めたら最後にはブックオフのにおいになるのかもしれない。だとしたらスゴイな。
僕はブックオフに行くと他ではあまり感じないタイプの疲労を感じるのだけれど、それはもしかしたら数えきれない数の家にあった本や物たちの念みたいなものに取り囲まれるからだったのかもしれない。そう思うと、妙な疲労もなんとなく納得できてしまう。
ここまで書いているうちに、ブックオフ愛好家たちが書いた『ブックオフ大学ぶらぶら学部』(夏葉社)が読みたくなってきて読んだ。においについての言及はなかったけれど、においたつようなブックオフ愛を繰り返し見せられて、なんとなくこの本自体からあのにおいがするのではないかという気がして、鼻を近づけた。
ああ、今日は鼻炎で鼻が詰まっているんだった。