島田潤一郎『90年代の若者たち』(後編)|静かにページをめくる日々 vol.02

前編の続き)


 90年代を若者として生きた島田さんの回想。あるいは、「若者たち」の記録。

 島田さんは90年代を生きて、00年代を生き抜いて、10年代のいまも生きている。青春と呼ばれる時代は、もしかしたら遠く過ぎ去ったものなのかもしれない。でも、少なくともそれは隔絶された過去ではない。つながりのない他人事ではない。そしてきっと、また明日からはじまる可能性だって秘めている。

 『90年代の若者たち』を読みながら、頭の中を様々な音楽が流れた。それらはすべて僕の個人的な記憶と結びついて、ぐるぐると目の前を回る。手の届かない過去。でも、このめまいは、決して気分の悪いものではない。


 情緒的で繊細な文章だという印象は、前著『あしたから出版社』を読んだときと変わらなかった。前著と比べるなら、より洗練されている気がしたが、それは読み手の僕の心境による感じ方の違いなのかもしれない。

 島田さんは、やはり根っこは小説家であり、詩人なのだろうと思う。私的な回想でありながら、退屈しない。文体は、軽いけれど、雑じゃない。そして何より、甘い。情緒の人、という印象は、僕の中でよりたしかなものになった。

 島田さんに直接お会いしたとき、「文体が素敵だった」ということを伝えた。それは僕の頭に真っ先に浮かんだ感想だった。細かい内容よりも、全体のイメージ。ディテールうんぬんより先に、僕は一冊の本としてよい本だと思った。折に触れて読み返すだろうなと思った。

 それでも、あえて細かいところについて書くなら、やはり冒頭の友人・荒川さんの章は、ほかの章とは違う、鬼気迫るものがあった。ここだけは絶対に外してはならないという、緻密な慎重さが見えた。最初の20ページ、僕は短編小説を読んでいる気がしていた。そしてすっかり、本に入り込んでいた。


 10代から20代前半にかけての、僕のまわりにあった音楽について、そのほとんどすべてはTHE BOOMを幹としていた。聴いているどのミュージシャンも、聴くようになったきっかけをたどればTHE BOOMにたどりついた。きっかけという意味では、僕の中で彼らはみなTHE BOOMから分かれた枝だった。

 数少ない例外は、ビートルズ、THE BOOMより前によく聴いていたZARD、そして高校時代に友人から勧められて聴くようになったくるり、あるいは当時好きだった女の子とよく聴いたゴスペラーズ。ある時期まで、僕の聴く音楽は、ある意味では狭い、ある意味ではルーツのはっきりしたものばかりだった。

 高校生の頃からいまにいたるまで、ヒットチャートの最前線を駆け抜けるような音楽は、あまり知らないまま過ごしてきた。もちろんそこには例外も大いに存在するが、最新の流行を仕入れる習慣が、よくも悪くも僕には身につかなかったということだと思う。身につける必要を感じなかったといえるかもしれない。音楽にしろ、文学にしろ、あるいはお笑いにしろ、それは同じことだった。繰り返しになるけれど、それはよくも悪くも、だと思う。とはいえ、いまさらそれをどうこうすることはできない。


 「中央線」を聴く。1990年から歌われている歌だ。

 かつて、僕が想像する中央線の風景は、いつも夜のものだった。日曜日の昼間、電車を乗り継いで吉祥寺に降りる。駅を背に、喧騒がやがて切れ、日常の色が強くなるまで歩いていると、なんだか奇妙な心地がする。この心地だけは、いまだに完全には慣れることができない。

 それでも、昭和のラスト1桁に生まれた僕は、平成を越え、新しい元号の街を歩いている。2010年代も今年で最後となり、90年代はおろか、00年代さえ少しずつ、しかし確実に遠くに離れていっている。やがて時がたてば、いま抱いている奇妙な心地は、感じることがなくなるのだろうか。その結末をたしかめるために、僕はまた電車に乗らなければならない。