短冊のその後

 少し前に、ブックマークに自分で作った短冊を使うようになったと書いたことがあったけれど、最近、使い始めてからはじめて短冊が挿さった本を読み返した。同じ本ばかり読み返すから未読の本が積まれていくんだ……という問題は別の話なのでここでは置いておくことにして、ふたたびその短冊の話。

 短冊が挿さっているページには、当時の自分が何かを感じた、もっというと、「ここには印をつけておくべきことが書かれている」と思ったことが書かれているはずだ。ところが読み返してみて、ある程度は当時の自分が何に引っかかったかがわかるのだけれど、何割かのページは、当時の自分が何を思って短冊を挿したのかうまくわからなかった。前回読んでから三ヶ月しか経っていないにもかかわらず、である。逆に、短冊が挿さっていないのに、ここは挿しておこうと思ったページもいくつか出てきた(もっとも、その本に関しては、当時は僕はまったくの素人の知識で読んでいたのが、その後関連の本をまとめて読んで、いくらかの知識を得たうえでの再読だったというのも影響しているのかもしれない)。

 いずれにしても、わずかな期間で、人の感じ方というのはいくらか変わってしまうものなのだ。これは実に興味深いことだった。

 短冊に何かメモを残しておけば、自分がなぜそのページに印を残すのかを記すことができる。けれども、たぶんこれはやらない方がいい。答えは、すぐにわからない方がおもしろい。過去の自分が何を感じていたかを想像しながらページを繰るのは、楽しかった。


 もう一つ、自分がやたらと短冊を挿している時期と、あまり挿していない時期があることにも気がついた。

 読書に対する姿勢の違いともいえて、「さあ何か吸収してやろう、一つも漏らさずチェックしてやろう」と意気込んでいた(と思われる)時期は短冊が多くなる。「肩肘張らずにのんびり読みましょう」と力を抜いていた(と思われる)時期は短冊を挿す意識が薄れる。

 同じような本でも、たとえば同じシリーズの本でも、短冊が挿さっていたりいなかったりするから、そのときのコンディションや読み方の好みが出てくるようだ。どんな本からでも何かを見出すことができる、と言い換えることもできる。

 どちらがいいとか悪いとかという話ではなくて、ギラギラと学ぶことも読書の醍醐味であるし、力を抜いてリラックスすることも読書の効能だ。

 短冊が本から飛び出ていると、本の上に本を置きにくいという影響もあったけれども(ほんとうはあまりやらない方がいい)、そこまで考えると話が複雑になってしまうので、この件はまたいずれ。